Devine, T.M.:‘Women Workers , 1850-1914’, in : Farm servants and labour in Lowland Scotland, eds.Devine, Thomas Martin, Edinburgh 1984, pp.98-123
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V
戻る
98.01, 19世紀スコットランド低地地方の農業労働力の重要な特
徴は、農業における日ごと季節ごとの女性雇用が広く普及
していたことである。1871年、165,096人が農場管理人(ま
たは土地管理人)、農業労働者、羊飼い、農業奉公人(屋内)
として調査されており、そのうち26%に当たる42,796人が
女性であった1。しかしながらこれは女性の多大な貢献を
過小評価したものである。なぜならセンサスの数値は春、
夏、秋にスコットランドの穀物、野菜、果物の、種まき、
収穫、摘み取りにやってくる季節労働者の大軍を含めてい
ないからである。さらに、センサスの合計は「雇用者の数」
にすぎず、小規模な農業家や小作人の妻や娘を数に入れて
いないが彼女たちはAberdeen、Banff、Kincardineといっ
たスコットランド南西部、および北東部の酪農業地域の労
働力の重要な要素だったのである2。イングランド田園地
方の雇用構造との関連でもスコットランドにおける女性の
一般的な雇用は独特のものである。上記で言及された分類
によって定義した場合、イングランドとウェールズで農業
の賃金を取得する女性は全雇用者の5.8%だが、
Northumberlandでは、一地方にすぎないが、賃金所得者の
25%が女性である。これはスコットランドの平均に近い3。
George Culleyというスコットランド南東部の農業報告者
は1870年、次のように注記している。「スコットランドの
慣習は、非常に広範にわたる女性の雇用という点でイング
ランドと異なっている。私の地方全域で軽い農作業、それ
とあまり辛くない農作業に女性が雇用されている」4
98.02, ここでCulleyは30年前のHenry Stephensの意見を繰り返
したにすぎない。「スコットランドの農場労働者は主に若
い女性からなるが、イングランドでは主に男性と少年で構
成されている」5 女性は実質的に、馬の管理を含む作業
以外の全ての農作業を行なっていた。彼女たちの仕事は農
場の「普通の仕事」を行なうことであり、それは馬を用い
ない「小さな道具」の使用と関係づけられていた。前者は
種芋の植え付け、草取り、石の除去、じゃがいも掘り、排
水施設を石で一杯にすることを含んでいる。後者は蕪掘り、
飼い葉の準備、納屋仕事、穀物の種の移送、肥料の撒布、
じゃがいもと蕪を鍬で掘る作業、草むしりとトウモロコシ
の刈り入れのような様々な仕事を含んでいる。加えて、乳
搾りとチーズ造りは彼女たちが独占していた。そのような
わけで1812年、「女性が雇用されない農作業は、犁耕と脱
穀以外ほとんどない」6と言うことができたのである。こ
の小論の目的はスコットランドの女性雇用の特徴的なパタ
ーンの原因を調査し、それから女性の職業集団のタイプに
ついて分類と記述を試み、最後になぜ農場の女性雇用が19
世紀後半次第に一般的でなくなったかを検証することにあ
る。
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99.01, 19世紀後半以前、農作業の一部は、慣習と伝統によって、
女性の専門領域と認められるようになり、これらの領域で
の女性の役割は19世紀を通して維持された。例えば、女性
が乳牛の面倒を見るのはスコットランドの不変の慣習だっ
た。Ayrshireでは、イングランドと異なり、牛乳、バター、
チーズに関する全ての作業は女性によって指揮されており、
それは適切でもあった7。さらに「農業革命」以前の小規
模な農場では必然的に、妻と娘が家族労働集団の重要部分
を構成していた。1750〜1830年、この小農部門は消滅する
どころか低地地方南西部、および北東部で改良された形態
で強固に残存していた。家族内の女性はその労働需要に多
大な貢献をしつづけた8。旧世界でも、既婚の耕夫の妻は
収穫の際の補助的な労働力源の非常に大きな部分と農業家
に見なされていた。Berwickshireの農夫の妻は収穫の間、
宿舎代のかわりに、夫の労働契約に含まれる賃金なしで働
く義務を負わされていた9。この制度はスコットランド南
東部の耕作可能な地域全般に普及しており臨時労働力に対
する収穫時の特別な需要を反映していた。数世紀に渡り、
鎌は穀物を切る道具であり、女性だけというわけではない
が主に女性の使う物だった。茎は根元の方まで切られるの
で、「このため特に女性に使用されるのである。というの
も女性は腰を屈めることに対して男性よりも肉体的に良く
順応すると言われているからである」10 男女の仕事を選
定する社会的な態度はこの小論が対象とする期間の間、女
性労働者の労働市場に影響しつづける。
99.02, 女性労働力に対する需要もまた、1780〜1830年のスコッ
トランド農業の社会的経済的構造変化によって影響されて
いる。中規模、および大規模な農場に、馬を飼育する専門
の人間が現れたのはこの時期である。耕夫は農作業から漸
次撤退し、代わりにある1組の動物を用いた犁耕や荷車で
荷物を運ぶ仕事や関連した作業に当てられた11。George
RobertsonがRural Recollectionsで注記したように、それ
は「専門の仕事に専門の人間を雇う」ことだった12。既に
その傾向は18世紀中葉、Lothian3州で見られる。もはや
耕夫は収穫過程で直接用いられることはなく、代わりに
「穀物を刈る人の真後ろに付かず離れずついて、列になっ
た茎の間の峰を耕す」馬を使う作業をした13。この新しい
専門化の結果、男性の農業奉公人の地位が向上し、その技
術の発達と仕事への誇りという点で貢献し、長期的には労
働生産性が増大した。しかしながらそれは必然的に、その
他一般の労働者の雇用もまた意味している。女性の屋外労
働者の広範な雇用は、新しい農業構造における労働の分化
の進展に対する1つの反応である。本質的に、昔の男女の
仕事の曖昧な区別は新しい農業でも維持され強化された。
そのようなわけで、19世紀後半の低地地方では「馬を使っ
た女性の仕事に対する文化的規定は絶対的だった」 一方、
第一次大戦以前に「もしLothianの1耕夫が蕪掘りを頼ま
れたら侮辱を感じるだろうし、ほとんどの耕夫は牛舎仕事
を断るだろう」14
100.01, 女性労働力の雇用は18世紀におけるその他の社会的経済
的傾向を反映している。当時転借人は低地地方農村部全域
で広範に渡る攻撃を受けていた。小屋住み農と転借人が保
有していた小区画の土地は隣接した大農場での労働用役の
見返りとして維持されていたが、今や次第に大きい密集し
た単位に吸収されていったのである。転借人は1770年以降、
借地人にとって非常に価値あるものだった。なぜなら1790
年代食料価格が上昇する一方、高水準の労働生産性への要
求は、農業家がさらに一層訓練と統制を加えることのでき
る専任の[full-time]労働者の雇用を必要としたからであ
る15。転借人階層は依然として季節労働力の重要な供給源
であったが、その層が薄くなったので、いくつかの地域の
農業家は家族雇用システムを強化した。これは既婚の男性
奉公人がいつでも必要な時に要求に応じて女性を働かせる
という条件付きで雇用されるものである。都市や村落、高
地地方やアイルランドから来た季節的な移民は、既婚の耕
夫階層の家族の構成員でもあったが、新しい農業上の必要
から残された労働力予備軍と見なされた16。季節的な仕事
に利用可能な女性労働力の拘束は、低地地方南東部で特に
重要である。なぜならそこは人口密度が低く、大規模で孤
立した農場が存在し、地方の産業構造の発達が貧困なため
都市労働力との接近が制限されていたからである。もし安
価で信頼の置ける代替労働力の確保が困難ならば、必然的
に農業家は既婚労働者の扶養家族である女性への依存を強
いられた。「その慣習は好ましい。なぜなら外部の援助な
しにいつでも農業家が一定数の労働力を使用することや自
作農自身の資源による目標達成を可能にするからである。
奉公が必要な時に村外の女性を雇うというのは答えになっ
ていない。なぜなら多くの大農場はいかなる村落とも隔て
られた状況にあり、商業が活発ならば女性に耕地を放棄す
るよう仕向けるからである……」17
101.01, その問題は伝統的な穀物の収穫とは単純にも直接にも関
連していない。なぜなら労働需要は3〜4週間継続するに
すぎず、規模は大きいのだが、本質的に継続期間が短いの
である。その困難な点は新しい農業の要求が昔と著しく異
なる点にある。多くの土地が生産に組み入れられ、耕作可
能になった土地は一層集約的に利用される。新しい土地利
用システム、すなわち蕪、牧草、じゃがいものような新し
い作物の栽培をもとにしたシステムの発達は年間通して自
作農の労働時間を延長したのである。それゆえ春から初冬
まで継続する草取り、種まき、犁耕、摘み取りといった新
しいサイクルのための労働力の雇用が必要になったのであ
る18。
101.02, 女性労働力は新しい輪作を発達させた農業家にとって大
きな魅力を持っていた。この制度は非常に労働集約的であ
る。根菜類は最も労働力を要求した。1エーカー当たり10
〜15労働者日を必要としたが、これは鎌を用いるトウモロ
コシの刈り入れの4〜5労働者日と比較されよう19。1830
年代初頭、Haddingtonの近くFenton BarnsのRobert Hope
は13人の耕夫と6人の冬期の季節労働者、加えて草取りと
蕪を鍬で掘るため24週間以上にわたり18人を雇用している。
それゆえ、もし可能なら安価な労働力源を開拓する誘因が
存在したのである20。Varelie Morganは1790年代スコット
ランド農業における女性の現金賃金が男性のおよそ半分で
あることを示している21。社会は女性を、妻や娘を問わず
従属的なものと見なし、男性と同じ賃率を得る資格を与え
なかったのである。この差別は伝統や、男性の賃率に関す
る容認可能な比率と見なされていたものによって強い影響
を受けていた22。1870年以降女性労働力の減少が進んだに
もかかわらずこの伝統的差別は部分的に侵食されたにすぎ
ず、継続された。女性を雇用する利点は明らかである。
1867年のある観察者はぶっきらぼうに記している。「農業
家が女性を雇うのは、賃金が男性の場合に予想される水準
の約半分だからである」23 効果的な労働の組み合わせと
いう雇用政策には著しい経済的便益が存在する。それは熟
練耕夫と多数の低賃金の女性から構成される。農業の女性
雇用に関する王立委員会が1870年に記している。「経済的
見地から見てスコットランド農業は、その成功の相当部分
を女性労働力が利用可能なところから生じる相対的な低賃
金に負うことは疑いない」24
101.03, しばしば男性より女性の方が優れた用役を提供すること
も認識されていた。特に女性は草むしり、鎌を用いた刈り
入れ、それと男性の道具である大鎌が広く採用された時に
は穀物の収穫に精通していると見なされていた。19世紀初
頭、依然として鎌が農作業の最も重要な手先の道具であっ
た時、様々な評論家が女性の特殊技能を認め、もしも作業
が小地片で行なわれるなら、実際に男性よりも利益をもた
らすと断言している25。蕪掘りにおける女性の専門技術は
手先の器用さに負っている。「女性というのは、力の強さ
ではあまり大したことはないが、概して、若い蕪が密集し
すぎて桑で掘り出せないような時に指で掘り出す器用さで
は抜きんでている」26 幼いうちからの訓練はこの肉体的
長所を最大化した。なぜなら農業奉公人の若い娘たちは幼
い日々、鍬やその他の道具を扱って育つからである。
102.01, 他方スコットランド農業における広範な女性雇用が農業
制度自体の性質にのみ制約されると結論するのは好ましく
ないだろう。その重要な補足的特徴に農村労働力に対する
工業の需要の性質がある。スコットランドの農業家は英国
北部外のイングランドの農業家よりも大きな度合で工業雇
用者と競争しなければならなかった。工業と都市の発達は
スコットランド中西部で最も活発だったとはいえ、低地地
方全域で広く生じた。町、都市、産業化された村落の代替
的な雇用の勧誘と縁のない農村地域はなかった27。1830年
以降もスコットランドの経済成長は依然として炭鉱業、鋼
鉄、鉄、工学、造船の成長に依存していた。それゆえ製造
部門は圧倒的に成人男子労働力を必要とし、低地地方周辺
の男性の移民によってその膨大な需要が賄われたことが示
唆されている28。この工業労働市場における性的な偏りは
1830〜1840年代、農業における女性の賃率が停滞する一方
で男性の現金賃金が上昇した理由を説明する助けになる29。
農業家は工業の成長との競争上、男性労働者を逃がさない
ために非常に高い賃金を示さなければならなかったのであ
る。そのようなわけで、Lanarkshireの工業化された州で
は1870〜1880年代若い男子が炭坑へ導かれ、女性労働力へ
の大きな依存の原因となる傾向が生じたのである30。
102.02, それでもその点は、関連してはいるが、正しい相関関係
を維持すべきである。スコットランドの農場では重工業の
著しい拡大のずっと以前から女性が広く雇用されていた。
East LothianやBerwickの諸州、Roxburghのようないくつ
かの地域は限られた産業発展を経験しているにすぎないが、
農業における女性の雇用者の最たるものであった。さらに
製造業と工業投資をもとに経済が拡大したので、女性がま
すます多くの雇用を見つけられるような非常に大きなサー
ビス部門が生じた。それから1870〜1900年、都市地域は地
方出身の男女両方を著しい度合で引き寄せた。これは女性
の農業賃金の長期的上昇に反映されている31。それゆえ、
女性がスコットランドの農業労働力の重要部分である理由
を十分説明するためには、慣習と農業構造、加えて既に論
じたが男性労働者に対する工業の需要の効果に対する注意
が当然払われなければならないのである。
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103.01, 女性労働力を歴史的空間的に妥当でありつづける精密な
分類の中に置くのは非常に困難である。しかしながら
1850〜1914年の間、大雑把に4つの集団が特定可能である。
(a) 常雇いで専任の労働者。主に低地地方南東部の屋外
労働者と南西部の酪農地域における乳搾り女、牛飼い女
(b) 家族労働者。(c) 「屋内外で働く」少女。その仕事
の一部は家事だが、農作業も含んでいる。(d) パートタ
イム労働者、季節労働者、臨時の労働者。
(a) 常雇いの労働者
103.02, ここでは2つの下部集団に気付く。1つはDumbarton、
Lanarkshire、Renfrewshire、Ayrshire、Wigtownshireの
酪農地域で雇用される女性の奉公人である。彼女たちは未
婚で、農場の酪農作業を全て行なうために雇われる。通常
農業家から宿と食事を提供される。彼女たちは女性労働者
の中で最も賃金の高い集団である。それは酪農という長時
間の厳しい労働と関係している。牛飼い女は牛舎の清掃と
牛の見張りもする。しかしその地位は複雑である。なぜな
ら専門の乳搾り女を雇う余裕のある農場は大規模、および
中規模のものだけだからである32。しばしばその仕事は自
作農の家族の女性によって行なわれ、臨時の労働力が雇用
される場合、少女たちは農作業と家事に加え搾乳の手伝い
をすることも期待された。そのような女性は特に厳しい制
度にさらされた。Dunbartonshireの乳搾り女は平凡な1日
をつづっている。「朝5時に起きてそれから7時まで乳搾
りです。7時にオートミールのお粥の朝食を食べて、8時
にも朝食をとります。食べたらすぐに家の中で仕事を始め
ます。休憩は30分もありません。昼食は12時です。食べ終
わったらすぐに乳牛の餌やりに出かけます。麦わら、蕪、
その他の仕事で4時まで働き続けます。4時になったらお
茶を飲みます。それからまた乳牛に餌をやります。5時半
から7時まで休憩して、それから8時まで乳搾りです。そ
れから30分かけて乳牛に飼い葉を与えます」33 おそらく
驚くことではないが、熟練した乳搾り女は、高賃金にもか
かわらず1900年まで多くの地域で供給不足だった34。
103.03, 2番目は原則としてFifeの南東部、Lothian3州、
Berwick、Roxburghで雇用され、他の地域ではほとんど見
られない常雇いで専任の屋外労働者である。1871年のセン
サスによれば全日制の農業労働者として分類されている女
性は女性雇用のうち、Haddingtonで33%、Berwickで32%、
Roxburghで30%、Edinburghのある州で28%、Fifeで24%
である35。この比率は北東部の数値と比較できる。女性雇
用のうち専任の農業労働者はAberdeenで3%、Banffで5
%、Kincardineで6%である。それゆえ南東部の農場では
常雇いの女性労働者を非常に激しく酷使していた。
Linlithgowでは100エーカー当たり4人の割合で女性が雇
用されていると計算されているが、一方1860年代の
BerwickとRoxburghでは成人労働者と農業奉公人のおよそ
半分が女性である36。表1はLothian3州における女性の
広範な雇用を立証している。
104.01, この女性への依存は、部分的にはこの地域の耕作構造に
関連している。というのも輪作制度の中でも青野菜の栽培
に大きな重点を置いているのである。2表が示すように、
スコットランド南東部は他のどこよりも青野菜の植え付け
の比率が大きい。蕪は女性労働力を最も要求する野菜の1
つである。さらに重要なのは地域内の平均農場規模が非常
に大きいことである。「100エーカー未満の農場は恒常的
に女性を雇用することができないだろう」37 常雇いの屋
外労働者は南西部、および北東部の小農場地域ではほとん
ど全くといってよいほど使われていない。
104.02, 地域における女性労働力供給の性質は時代によって変化
する。19世紀後半、既婚の耕夫は必要に応じて女性労働者
を提供するという条件付きで雇われた。おそらく、少なく
ともいくつかの地域では、これはもともと耕夫の妻であっ
た。そのようなわけでBerwickshireでは「農夫の妻は収穫
のためたいがい賃金なしで拘束される。しかし屋外労働の
ほとんど全て、特に種まき、収穫物の乾燥といった作業を
すれば、食料をいっぱい貰い、しかもこの地方の一般的賃
金を貰うものだが」38 しかしながら、新しい農法は年間
を通して非常に多くの常雇いの作業を必要とし、これは必
然的に妻たちの家内の責任と対立する。加えて、Lothian
3州の農夫の妻にとって乳牛の世話は普通であった。乳牛
を飼うことで得られる牛乳とバターは、家族の食事の重要
な要素であるだけでなく、地域市場で売却されれば、主に
父親への支払いを通して報いられる、世帯に不可欠な現金
収入源をもたらした。それゆえ特に南東部の農場における
常雇いで働く既婚女性の割合は乳牛を飼う地域的慣習に従
って変化する傾向がある。だからLinlithgowでは「農夫の
乳牛がいないので、既婚女性のかなりの部分はもっとずっ
と南で雇われる」39 1867年の春季、および冬季
Lilinthgowの10の農場に戻った労働力を見ると、春は55人
の既婚女性と99人の独身女性が雇われ、冬は35人の既婚女
性と74人の独身女性が雇われている。他方「乳牛州」
Haddingtonでは12の農場のうち、春に5人の既婚女性と
150人の独身女性が雇われ、冬にはたった2人の既婚女性
と149人の独身女性が雇われている40。
105.01, それゆえLilinthgowとFifeを除いて、スコットランド南
東部における女性労働力への需要の増加は独身女性の雇用
によってのみ賄うことができたという結果になる。既婚の
耕夫は要求次第でいつでも女性労働力を提供する義務を負
わされていた。通常これは娘や姉妹のことであろうが、利
用可能な者がいない場合は外から「拘束労働者」が雇われ
た。耕夫は彼女に宿と食事を提供する必要があり、農業家
は彼女の毎日の仕事に対して貨幣で手当を支払った。「農
夫は使役できる女性に、その季節の賃金に従って、あらゆ
る賃金を支払う義務を負わされている。さらに彼女の小屋
や食料や洗濯物を見つける義務も負わされている。しかも
彼女の労働日数は農業家の意思次第である」41
105.02, 1850年代まで低地地方南東部全域に拘束制度への公然の
敵意が存在し、大キャンペーンがその廃止を強制し始めた
42。耕夫は拘束労働者を雇用し食事の世話をしなければな
らなかったが、彼女の用役が必要な時だけ支払うにすぎな
い。それゆえ農夫はよそ者を雇うよりも自分の家族から労
働力を調達する方を好んだ。これは家族の自由と機会に対
するあからさまな制約である。1850年代1批評家が拘束制
度に対して次のように指摘している。「……農夫を悩ませ
るというよりむしろ、しばしば拘束労働者として娘を家に
置く。彼女たちが先頭に立つ奉公人として、または何か別
の職業でもっと良い賃金を得るべき時に、である」43 お
そらくこれは問題の要点である。拘束制度に対する敵意は
低地地方南東部の農業奉公人の大きな姿勢変化の必須部分
である。1860年以降賃金水準の上昇同様様々な予想が上昇
する。非常に魅力的な都市の職業の発達は、家に娘を置い
て農場で働かせることを完全に困難にした。周辺地域から
の移民は労働者階級の労働力取引の増加に寄与した。特に
拘束制度に対する1860年代のキャンペーンは賃率の上昇と
状況の改善への一般的試みの中心的な要素であった44。
106.01, それゆえもともとの形での拘束労働者は1860年代減少し
つづけるが、全ての地域で同じペースで消滅したわけでは
ないし、そのいくつかの側面は1914年、「拘束労働のため」
によそ者を雇う公の必要が中止に追い込まれた時でさえ残
存した。拘束制度はLothian3州では実質的に1870年まで
には消滅した。しかしBerwickとRoxburghでは存続した45。
しかしながら、あらゆる地域の農業家は依然として女性労
働力を必要としており、拘束制度の衰退に対し様々な方法
で対処した。家族内の女性を提供する男性は雇用の公平か
ら見てますますえり好みされた46。これは高年齢の労働者
には有利だが若い耕夫には不利である。もう1つの結果は、
BerwickとRoxburghにおける、拘束制度が公式に消滅した
後における労働単位としての家族の継続である。これらの
州では1920年代になっても女性労働者は農場で雇用される
男性の娘であった。彼女たちの契約は父親によってなされ、
年季契約の間労働のため「拘束」されるのが普通であった。
個々人に週給が支払われることはなく、父親か母親に一括
して支払われた。女性労働力の従属的地位は、このように
永続させられたのである47。スコットランド南東部の他の
地域では、特にHaddingtonとLilinthgowでは、拘束制度の
衰退がEdinburghで家内奉公の仕事を探す農夫の娘の増大
を引き起こした48。この地域の農業家は小屋を建てて高地
地方やアイルランドの少女たちを下宿させることで対抗し
た。娘を持つ独身女性や寡婦にも、日給が必要な時に労働
を提供する見返りとして小屋が賃貸しされた49。雇用者は
気候が悪くなったり季節労働が緩慢になった時に支払いを
したり維持したりする必要のない安価な労働力の信頼でき
る供給維持を追求した。繰り返すと、以前の拘束制度と新
しい「自由」労働力の間には継続性が存在する。
(b) 家族農場の女性労働者
107.01, 300エーカー以上の大農場は、Lotian3州のような少数の
地域でのみ支配的である。しかしながらそれぞれの地域で
は、特にスコットランド南東部以外では小さな小作地の持
ち分を家族労働力によってだいたい、または完全に維持し
ていた。3表はこの小農場部門の規模に対する洞察を与え
てくれる。数値は地主たちが自分の農場のエーカー数を記
録するために依頼した公式発表のセンサスから得られたも
のである。異なる規模の農場に関する相対的な数値を示す
ためそれぞれの時期の合計は1000に減らしてある。
107.02, 100エーカー未満の農場で働く農業家の大半は家族労働力
に強く依存している。ある事情通の同時代人の推計は1913
年スコットランド農業には約167,000人の専任および臨時
の労働者がいたことを示唆している。この総括的な合計の
うち78,000人は地主の家族と考えられていた50。家族制度
における女性労働力の重要性は事業の規模と生産の重点の
両方に従い変化する。スコットランド北東部の小農場では、
「小作地の成功は賃借人の技術と勤勉さ同様主婦の技術と
勤勉さに依存している」51 家族内の女性は特にAberdeen
とBanffの小作地の仕事で重要である。息子たちは、隣接
する大農場で奉公できるようになるやいなや明らかに家を
出てしまうが、その姉妹や母親は小作地の手伝いのため家
に残る。そのようなわけで1911年、妻が合計に含まれない
場合でさえ、女性は小作地の労働者のうちAberdeenで54%、
Banffで49%、Nairnで57%を構成している51。同様のパタ
ーンがRenfrew、Lanark、Ayrといったスコットランド南東
部の酪農地域に存在する。1860年代のAyrshireでは「チー
ズを作る者の大部分は農業家の妻と娘であり、乳搾り女を
雇うのは少数の、非常に規模の大きい農場にすぎない」53
またLanarkshire南部の教区では「農場はだいたい100エ
ーカーで、多くは農業家とその家族によって十分耕されて
いる。農業家自身は犁を操作し妻はチーズを作っている」
54
108.01, ある農場がこのように耕作される場合、通常賃金取引は
存在しない。息子はいつか農地を相続するという望みを抱
くに違いないが娘にその希望はない。彼女たちの人生は依
然として嫌な仕事と骨折りの生活と認識されていた。ある
批評家はこれを「家族労働の女奴隷」55と呼んでいる。中
核的な産業である酪農は午前2〜3時という非常に早い起
床時間を必要とした。それは温かい牛乳に対する人々の偏
愛のためである。同様に高地地方の農場で酪農に従事する
女性は早朝の列車で確実に町に牛乳が送られるよう朝早く
搾乳しなければならなかった。その他の事例では大規模な
チーズ製造がある。この作業が要求するのは「膨大な継続
的労働で、週7日の労働が6〜7ヶ月も続くのである……。
以前私は女たちが午後3時に同じ服を着ているのを見たこ
とがある。彼女たちは朝の3時、4時に慌ただしく起床し
て骨折り仕事を続けなければならない。1つの仕事が終わ
ればまた次の仕事だ――乳搾り、朝食の準備、チーズ造り、
子牛と豚の餌やり、昼食の用意など。酪農に従事する女性
にとって1日16時間働くのは普通のことであり、自由が認
められるのは食事の時間だけだ」56
108.02, 家族労働力の広範な使用は賛否両論を招いた57。ある者
は家族労働力が費用と生産性の両方で明らかな長所を持つ
と論じている。つまり1つの生産単位として家族が一緒に
働くことは生産の効果的な道具立てになる傾向にある。な
ぜなら仕事とその成果に対する個人的な関心を直接個々人
に抱かせるからである。19世紀の第4四半世紀に農産物価
格が下落した時、特にスコットランド南西部の農地は、少
なくとも部分的に労賃最小化という難題と戦った。他の者
は家族労働は農業における女性の一般的低賃金の1つの原
因であることを示唆している。ある批評家が述べている。
「女性労働力の有給雇用の基本的状況は、正規の賃金なし
で雇用される家族労働力や実質的に苦汗労働、寄生労働で
あるものとの競合である」 20世紀初頭には次のような心
配も増えていた。すなわち家族制度内の若い女性固有の搾
取は地方から都市への女性の移動の1要因であり、1900年
までにスコットランド農業のいくつかの産業部門で労働力
不足の原因になったのである。例えばCarterは次のように
論じている。1880年以降スコットランド北東部の農地を離
れた農民の最初の集団は若い女性であり、彼女たちは「農
業家が独立しても家の奴隷状態から開放されるという希望
が全くなかった」58
(c) 「屋内外で働く」少女
109.01, 1871年のセンサスによれば、スコットランド農業では
42,789人の女性が賃金労働者として実際に雇われており、
52%が「農業労働者」、これはおそらく常雇いで専任の農
業労働者であるが、そうした者として記録され、残り48%
は「農業奉公人」(屋内)であった。この後者の集団は
Lanark、Dumfries、Stirling、Dumbarton、Aberdeen、
Banff、Kincardine、Ayrで最も数が多く、スコットランド
南東部のHaddington、Fife、Berwick、Roxburghではあま
り一般的ではなかった59。それゆえ大農場が普通である地
域では彼女たちは稀であり、小規模、および中規模小作地
の地域では非常に特徴的である。小規模、および中規模の
農場では女性労働者は万能でなければならない。なぜなら
Lothian3州の制度の因習的特徴の中では、単独の仕事が
継続的な基礎のもとで労働力を吸収するのは不可能だから
である。「屋内外で働く」少女たちは、名前が暗示するよ
うに、家事、搾乳、農場の手伝いを行ない、つまり農場の
全ての仕事に当てられた。彼女たちには固定的な時間がな
いばかりか、1914年までは大抵、いかなる休日の習慣も認
められなかった60。しかしその状況について一般化するこ
とは困難である。なぜならそれは個々の雇用者の態度や地
域的慣習に大きく依存するからである。だからスコットラ
ンド南東部の酪農地方の非常に規模の大きい農場では搾乳
と乳牛の世話でほとんどの時間を費やす傾向があった。小
さな農場では、彼女たちは家族の側で働き、要求されるこ
と全てを行なった61。しかしながらAberdeenshireと
Banffshireの「屋内外で働く」少女の特別な仕事には台所
仕事がある。なぜならスコットランド北東部の農業労働者
の多くは独身男性で、農場付属の家屋で食事をしていたか
らである62。しかしながら彼女たちの仕事には、搾乳、家
禽の世話、農場の臨時の手伝いといった戸外で行なうもの
も含まれている。
109.02, もし「屋内外で働く」少女が農場で雇われる唯一の奉公
人ならば、他のいかなる女性農業労働者よりも彼女が長時
間の厳しい労働をすることは概して容認されていた。1914
年以前にその確保がますます困難になっており、同時代人
はこれを貧困な労働状況のためと考えた。「この有様はこ
れらの少女たちの雇用の性質、特に労働日数の長さと固定
的かつ定期的な余暇の欠如に原因しているのである」63
(d) 季節労働者、臨時労働者、パートタイム労働者
109.03, 農業における種まき、成長、成熟、収穫という循環は労
働需要が年間通して変動することを必然的に意味する。
Clydeside、Carse of Gowrieには穀物、蕪、じゃがいも、
新しい果物に関連する仕事の山場がいくつもあった。労働
需要の季節的動向の指標は1880年代の「Glasgow近辺の250
エーカーの大農場」の標本から得られている64。常雇いの
人員は3〜4人の耕夫と2人の女性の奉公人からなる。脱
穀機、または袋一杯になったじゃがいもについては冬季の
み少数の補足的労働者が必要とされた。初春の仕事である
4月のじゃがいもの植え付けについては、20〜24人の女性
が雇われる。5月の終わりのじゃがいもの草取りは30〜40
人の女性を必要とした。これは5月末から6月にある蕪の
中耕でも同様である。8月、9月、10月は主な季節労働が
連続して起こる。穀物の収穫、じゃがいも掘りと蕪掘りで
ある。蕪掘りはこの農場で最も臨時の労働力を要求するも
ので、60〜70人の女性労働者の臨時雇用を要した。
110.01, 機械化は穀物収穫の労働市場に大きな衝撃を与えた。機
械化は最初刈り取り機の発達に伴い、それから1890年代の
刈り取り結束機の採用の結果として現れた。しかし全ての
農業家が機械の恩恵をこうむることができたわけではない。
機械は資本費用への算入に耐えられる大規模な小作地のあ
る地域で最も普及した。その他の季節的な仕事は19世紀後
半でも労働集約的でありつづけた65。実際1880〜1914年の
間に季節労働者の需要が増大したと言うことができるので
ある。常雇いの労働者の賃金上昇と、移民の結果のような、
ある種の専任労働者の不足の進展は短期契約の労働者をも
っと多く雇用するよういくつかの地域、特にLotian3州の
農業家に強いた66。さらに1870〜1900年、Ayrshire西部の
教区では早生のじゃがいもの栽培とLanarkshireと
Perthshireの園芸市場の発達を受けて季節的な労働需要が
押し上げられた67。
110.02, スコットランドの農業家は季節労働者の3つの供給源を
維持していた。第1に、アイルランド人の男女の労働力へ
の依存の増大がある。これは永続的な移民、スコットラン
ドの都市に住む者、アイルランドから来た者から雇用され
る。アイルランド人はよそへ仕事を探しに行ってしまった
耕夫の娘の代わりに、じゃがいもの収穫と蕪掘りの両方で
広く用いられた。Ayrshireの早生のじゃがいもは6〜9月
アイルランドからやって来る女性の集団によって収穫され、
需要に応じて農場から農場へと移動する68。2番目に、
Lothian3州以外では、臨時労働者の補助的な供給源とし
て耕夫の妻が広く雇用されていた。Aberdeenshireと
Dumfriesのように遠く離れた地域の農業家は男性を、その
妻が必要に応じて搾乳や季節労働をすることという条件付
きでしばしば雇用した。スコットランド南西部の酪農地域
では「大多数の女性」がこうした非公式の契約のもとパー
トタイム労働で雇用されていた69。3番目に、隣の町や村
から季節に応じて調達される労働者への強い依存がしばし
ば存在した。町から来た臨時の労働者は、都市の失業者や、
工場で働く男性の妻や娘で言い尽くされている。Aberdeen
やEdinburghから来た女性は蕪を鍬で掘るため近隣の農場
で雇われた70。1860年代のLanarkshireのいくつかの地域
では「女性がじゃがいもや蕪といったほとんど全ての作業
をこなす……。彼女たちは町や村から働きに来る」71 こ
れは鉱山労働者や鉄鋼労働者の妻や娘が追加的な所得を得
るため農場で仕事を探すのと同様に、地方の産業構造を反
映している。「これらの農場は、耕夫や臨時の季節労働者
がいるのは例外として、炭坑周辺の村から仕事に来た女性
によって十分耕されている」72 同様のパターンは
Ayrshireの鉱業地域とFifeの工業地域に広がっていた。別
の時代になるがDunbarでは近隣の農場でニシンや穀物で働
く女性が雇用されていた73。Paisley周辺でも、工場労働
者の妻や娘は季節労働力の重要な構成要素だった74。皮肉
にも都市の成長は、地方出身の常雇いの労働者の移動を増
加させた一方で、必要不可欠な農作業をするのに利用でき
る不完全雇用のプールも提供した。もちろんこの利点は都
市部に近い地域にのみ当てはまる。
V
111.01, センサス資料の不適当な点は1850〜1914年の低地地方農
業における女性の参加の度合の精密な分析の実行を困難に
している。センサス調査員には農業に参加する親族を排除
するという持続的な傾向が存在する。そのようなわけで家
族内の女性労働力の重大な貢献は実質的に無視される。
1871年のセンサスでは全ての子供が、5歳以下でさえ、家
族労働力の一部として数えられているが、1881年および
1891年のセンサスでは15歳以上の男性の親族だけが含まれ
ているにすぎない。この妻、娘、孫娘、姪の省略は「農業
の女性雇用」の見かけ上大きな減少を説明する助けになる。
というのも1871年128,500人だったものが10年後には
51,657人になっているのである。さらに加えて、女性労働
者の分類の一部には歴史的地理的均一性がほとんど存在し
ない。1891年のセンサスにある「屋内外で働く」少女とい
う分類は、1901年および1911年のセンサスだと「農業に従
事する労働者」というよりむしろ「家内奉公人」として分
類されている。おそらくこれは屋外雇用が家内奉公に従属
していたスコットランド北東部で頻繁に起こったようであ
る。しかしこれを確実に知る方法はない75。最後に、セン
サスの分類は季節労働者、臨時の労働者、パートタイム労
働者である女性についてなんら示唆を与えない。印象主義
的な証拠が示唆するある種の集団は19世紀後半の農村地域
の一部で非常に大きな重要性を仮定している。
111.02, こうした弱点の結果は主に、センサスが農業の女性雇用
の総数の大雑把な指標さえも歴史的に示せないことである。
あらゆるセンサスにおける女性労働力供給の大きな変動は、
真に根本的な数量の変化のためというより実査というセン
サス形式の変化によって大部分が説明されるだろう。粗い
センサス資料の信頼性はそれが明らかにするところよりも
曖昧である。それゆえ必然的に、歴史家はセンサスの中の
ほとんど欠落がない部分だとか、対象期間内の女性労働力
供給に対して洞察を与えてくれる非常に定性的な証拠を含
む完全な部分を使うよう強いられる。
112.01, 歴史的に全ての移動を図表化するのは不可能だが、女性
労働者の特定集団の事跡を調査するのは可能かもしれない。
そのような1分類が「農業の女性賃金所得者」、すなわち
スコットランドの農場で常雇いの専任労働力として雇用さ
れた女性たちである。この分類でさえ「屋内外で働く」少
女の曖昧な地位に由来する歪曲に支配されるが、おそらく
その問題はAberdeen、Banff、Kincardineでは実際より少
なく数えられ、スコットランド南西部では割合が非常に小
さいために大きく抑制される。4表は「女性賃金所得者」
に関する1861〜1911年のセンサスの数値を示している。5
表は1871〜1891年の短期における地域的状況の、さらに洗
練された概観を示している。
113.01, こうした資料は現実性の精密な尺度としても、センサス
年の間の短期移動の指標としても、信用がおけない。1893
年王立労働委員会は1881〜1891年の女性賃金所得者の著し
い急落について論評している。「これらの結果は全く常軌
を逸しており、2つの時期の実査の制度が異なっているこ
とを示唆しているようである」 それでもやはり、概して
センサスから明らかになる長期的な減少パターンは他の証
拠によって確証されている。1890年代Ayrshire、
Renfrewshireでは専任の乳搾り女が減少している76。スコ
ットランド北東部のMoray、Banff、Nairnでは「今や女性
は、収穫を除いて、労働者としてほとんど全く知られてい
ない」 以前女性の領域だった仕事において若い男性がま
すます雇用されていった77。常雇いの労働力はスコットラ
ンド南東部、特にBerwickとRoxburghで潤沢だったが
Lothian3州では不足が訴えられていた78。1893年王立委
員会は徹底的研究の後で報告している。「農作業について
女性が効果的な数だけ利用可能な所は、たとえあるとして
も、ほとんどない。またそれが有効である稀な事例を見る
と、供給はほとんど隣村からなされており、農場の人員や
家族からの供給は十分ではない」79
113.02, 実のところ、委員会の報告が暗示するように、労働力不
足という一般的問題が存在する一方で、その問題は地域間、
労働者の階級間で多様化していた。1890年代、Fife東部の
教区では産業化された都市や村落のように、女性の需給は
おおむね均衡していた。ふつうこれは必要に応じて季節労
働力の適切なフロー量を作り出す80。同様にSelkirk、
Peebles、Dumfriesに深刻な問題はなかった。なぜなら牧
畜業の集中状態は常雇いの農業労働力に対してほとんど需
要を生み出さなかったからである81。しかしながらこうし
た地域は別として、女性労働者の減少は実質的に1890年代
スコットランド低地地方全般で共通の不満の種だった。常
雇いの女性労働力の不足の進展はある特定利害に原因して
いる。季節労働力の供給は、都市労働力と接触していたい
くつかの地域では十分と判断され、他の地域では潤沢と判
断された82。しかしながらスコットランド南西部では「酪
農地方の悲鳴が騒々しいのは乳搾り女を得ることが実に困
難であり、十分熟練した乳搾り女は実際非常に稀だからで
ある」83 「屋内外で働く」少女は1914年以前に稀になっ
ており、Lothianの農夫の娘は早くも1850〜1860年代には
ますます地方の外で雇用を探すようになった。そのような
わけで、1890年代「HaddingtonnでもClackmannanでも女性
は珍しく、ほとんど獲得できない」84
113.03, その問題は同時代の議論をかなり刺激しており、19世紀
後半常雇いの農業雇用のために女性を獲得することが困難
な理由を説明するためたくさんの理論が発展した85。ある
者は非熟練女性労働力が技術改良でいらなくなった必然的
結果と見なしていた。他の者は1880〜1890年代の農産物価
格の抑圧との関連を見ていた。というのも彼らの見方によ
れば、あらゆる農業労働力に対する需要を減少させたから
である。別の意見は次のことを示唆している。すなわち、
農業における女性雇用の状況は劣悪で、女性が土地を放棄
して町でより良い機会を探すのは驚くべきことではないの
である。
114.01, 機械化のペースは19世紀後半に一層加速された。スコッ
トランドの農機具製造者の数は1861年の58から1891年の
222に増加した86。1900年までに、大農場では、刈り取り
結束機が穀物収穫時の昔の労働需要を減少させていた。刈
り取り機でさえ、1860年代後半から一般的慣習の中に取り
入れられており、ある推計によれば「農業家は半分の人手
でトウモロコシの収穫が可能になった」87 馬鍬は干し草
に対し同様の優越をもたらした。また根株を掘る道具、
チェーンハロー、馬鍬[horse-hoe]、蒸気脱穀機は全て手
作業の減少に貢献した。しかしこうした器具の採用は変則
的かつ寄せ集め的であり、搾乳、じゃがいも掘り、蕪掘り、
果物の摘み取りといった女性の伝統的な仕事は依然として
残ったままで、そのため大部分の地域は1914年以降も機械
化されなかった88。さらに女性に対する需要が技術改良の
結果、一般的に減少したという証拠は存在しない。対照的
に、省力器具の革新が労働力の減少と移民労働力による労
賃の上昇を招いたという指標が存在する89。1920年代、ス
コットランド農業における女性に関する委員会は次のよう
に結論している。「……ほとんど全ての地域において産業
としての農業は、もし田舎暮らしの経験を有する女性が仕
事を望むならば、依然として非常に多数の女性を雇用する
ことが可能である」90 加えて、1914年以前の技術改良の
大半は季節労働力を節約している。非常に広範な機械の使
用は、常雇いの女性労働者が農業に残った理由をそれ自体
として説明できない。問題が、女性の奉公に対する需要の
大きな減少というより雇用者の要求する水準で供給が維持
されなかったことであるのは明白である。
114.02, 「農業の抑圧」という用語で女性労働者の不足を説明す
る試みについても同様に困難な点が存在する。C.S.Orwin
とE.H.Whethamは1870年以降農村人口減少の「主な理由」
は「雇用機会の制限である。なぜなら農業家は抑制期間中
労働力を減少させたからである」91 しかしこれはスコッ
トランドの状況下ではほとんど説得力のない説明である。
農産物価格は1870〜1900年の間主な換金作物全てについて
かなり下落している。しかしながら6表、7表が示す通り、
これは農業制度の均衡に変化を招きはしたが穀物や青野菜
のエーカー数にはなんら劇的な減少を起こさなかったので
ある。耕作面積の減少は広範にわたる過剰労働力の結果で
あろう。全般的に、スコットランドの穀物耕作地のエーカ
ー数は1870〜1914年の間に約15%減少したが、多くは低地
地方西部のDumbarton、Midlothian東部といった「寒くて
痩せた高原」に集中している92。Lothian3州の耕作可能
な土地でさえ、8表が示すように、常雇いの女性労働力に
対する需要の減少は丘陵地帯の外辺部に制限されており、
季節労働者としての女性に対するよそでの需要の増加によ
って部分的には相殺されていたのである。
116.01, 女性労働者に対する需要が「農業の抑圧」全般を通じて
多くの地域で維持、または限界耕作地でのみ減少したとい
う印象は9表、10表に示されている賃金の資料によって確
証される。これは1860〜1890年、概して女性市場には買い
気があったことを示唆しており、先の議論が暗示するよう
に、穀物の収穫についてのみ、技術改良のため女性の奉公
に対する需要が著しく減少したことを示している。
118.01, Aberdeenshireから得られた詳細な資料は春の賃金が1870
〜1876年の間に60%上昇したことを明らかにしている。そ
れから賃金は1881年まで下落している。しかし、最も低い
数値でさえ、賃率は1870年の水準より上のままである。
1881〜1888年は比較的賃金が安定している局面である。
1887〜1888年、1891〜1892年実質賃金の増加は最高潮に達
する。1900年からは一般的上昇が特徴である。簡単に言っ
て1870年から1900年の間に、春の現金賃金は女性労働者に
対して2〜3倍多く支払われた。もし同じような上昇が他
の地域で起こっていたなら、先に書いた通り、スコットラ
ンド北東部における女性労働力の調達が特別困難だったこ
とになる。それでもなお、R.H.Pringleの集めた証拠(9表
に示されている)と同時代人の論評は、ほとんどの地域の
農業家が常雇いの女性労働力に対して長期的に非常に高い
賃金を提示するよう強いられたことを示唆している。
119.01, 支払いの性質、農業の状況、代替的な雇用の誘因、よそ
での機会は女性の農業奉公人の移民を説明する際決定的に
なる。何人かの評論家は中心的な要素は低賃金であると強
調している。というのも女性は男性と同じ仕事をしても男
性の賃率よりもずっと少ない分しか支払われないのである。
「農業労働の多くの部門では、優秀な少女が並の男よりも
多くの仕事をこなすだろうが、それでも彼女は並の男の半
分の賃金に甘んじなければならない。疑うまでもなく女性
の賃金はこの40年で2倍になったが、臨時雇いの男や農夫
と並んでしばしば働く時女性が男以上の仕事をしても、そ
れでも男の半分の賃金しか得られないという事実は依然と
してそのままである」93 賃率の差別は、女性労働者の確
保が困難であるにもかかわらず維持された。なぜなら女性
の賃金は慣習に従い男性の賃金との伝統的比率から計算さ
れたのである。補足的な事実の1つは多くの農業家が常雇
いの労働者に代えて低賃金の季節労働者を調達可能だった
ことである。この予備軍は専任の奉公人の賃率を抑制する
よう作用したかもしれない。女性労働力はしばしば父親と
の契約を通して雇われた。これによって父親は、女性の親
族が必要に応じて働くことを保証する義務を負った。スコ
ットランド農業奉公人組合の書記のJoseph Duncanは、
BerwickとRoxburghでは「……男たちは女をてことして使
っている。つまり男たちがもっと良い賃金を得ようとする
ため結果的に女性の賃金が損害を受けているのである」94
他方男女間の差別は常に存在しつづける。19世紀後半重
要なことは、低賃金の存続もさることながら女性自らによ
る論評や批判が寄せられたことである95。それゆえ女性労
働力の低賃金に対する論争は、期待の上昇と農作業への敵
意の増大の反映である。農作業への敵意は、おそらく不適
当な報酬という問題以上に広範なものであった。
119.02, 農業は「女らしくない」職業としてますます見なされて
いった。都市の家内奉公は高給を提示するかどうかを問わ
ず、農作業よりも品のあるものと見なされた。農場の生活
は都市のいくつかの職業と比較すると「汚くて粗雑」と見
なされ、その長時間の不定期労働、休日や社会的魅力の欠
如に対し広く批判が集まった96。ここではこうした態度の
変化に寄与したものを詳細に検証することはできない。同
時代人はそれを「1872年以来の教育の一般的普及」「都市
と都市とのより緊密な関係を強める鉄道の衝撃」「既婚の
農業奉公人階層の所得の上昇」という言葉で説明している。
農業奉公人階層の所得の上昇はその家族も含めて非常に高
い社会的期待に寄与している97。理由は何であれ、農業か
らの移動は農業以外の代替的な機会の発展によって継続し
た。R.H.Pringleが1894年適切に述べている。「40年前、
農場で働く女性は自分たちが怠惰になることを経験しなけ
ればならなかった。他の雇用については稀であり、工場は
幼稚段階にあった。今では世界が変わり、きらめく大志と
自分に誇りを持つ教養ある田舎娘が、別の雇用部門でもっ
と良い機会を見出せないため「ボロ」の中で骨折り仕事を
する必要もない」98 スコットランド経済の構造変化は19
世紀後半の農業家が以前よりもずっと、女性労働者につい
て都市の雇用者や工場の雇用者との競争に直面するのを確
実にした。わずかな所得で働きたがる田舎の女性が、安価
かつ潤沢に供給されていた日々は、過去のものになったの
である。