,戌年の正月を迎えて

1区 佐藤 元賀 

 「犬は桃太郎のお伴をして命令を遵守し、鬼退治に貢献した。花咲か爺さんでは“ここ掘れワンワン”で“大判小判ザクザク”。爺さん婆さんの生活を安定させた。渋谷名物の“忠犬ハチ公”、テレビドラマの“名犬ラッシー”。今では捜査、救助などに活躍、空港関税では麻薬摘発に努めている。君たち“猫族”にもこんな功績があったら教えてほしいものだ」

 これは、須磨章氏(NHK放送総局担当局長)の著書『猫は犬より働いた』(柏書房)で、プロローグに掲げられた最初の一節である。そしてこの一節は、ある雑誌で連載されていた“ネコの独り言”に寄せた反論者の手紙の内容とのこと。「あまりにもいい得て妙なので一本とられた」と。が、著者はこれに奮い立たされたという。

 実は昨年暮れの片付け中、買い置いて忘れていた前出の『猫は犬より働いた』を手にした。その著書に巻かれた帯広告には、「犬派も必読!」とあるではないか。特に“犬派”というのでもないが、そうだ来年は“戌年”。正月にこれを読もうと決めたのである。

 果たして猫は犬よりどれほど働いたであろうか。猫の真骨頂は“ネズミ獲り”。群馬県に伝わる“桑つみ唄”の一節「蚕さい中に嫁後に出られ 貰わにゃなるまいとら毛猫」の例のように、猫は国家の命運をかけて闘ってきた戦士。「馬一両に猫五両也」といわれたほどの働きぶり。中国でも同様だったと、その役割を克明に解き明かす。ヨーロッパではウイスキーの素・良質の大麦をネズミから守るためにどれほど働いたかというのだ。

 かつてヨーロッパで猛威をふるったペスト。それが日本にも上陸、ペスト菌を発見した北里柴三郎博士の提案で、警視庁から「家毎に猫を飼うべし」と通達が発せられ、ペストが上陸して31年後、猫が登場してから4年後に、患者数ゼロになったと解いている。さらに…エジプトでは、瞳孔が開閉する猫の目の神秘性から王家の守護神として崇められ、日本に中国から渡ってきた家猫は、平安朝時代から高貴な人々の癒しのペットとして大切に飼われていたと、『源氏物語』・「柏木」の恋のドラマを例に引く。そして…

 だが、大昔ヨーロッパでのキリスト教徒による猫の大量虐殺、日本では殺鼠剤「猫いらず」の登場で“ネズミ獲り”の猫はリストラ同然。都市化とモータリゼーション化で、命を危険にさらされる受難の昨今等々、猫にとっては数奇な運命も待っていた。ある雨の降る日、玄関脇でうずくまっている猫との出会いから、犬派から猫派に変わったという著者が、猫たちの辿った運命を論述する合間、合間で綴った、そのドラマチックな猫の世話活動とそこで注がれる命あるものへの溢れる愛に、幾度となく目頭を熱くさせられた。戌年の正月、戌年の小生には至福の時を過ごさせていただき感謝と感激でいっぱいであった。

       

「どうすれば癌にかからないか」

3区 石川 隆俊

 拝島駅前自治会の皆様には平素から大変お世話になっております。今回会長から、原稿の依頼を頂きました。私は癌研究所、東京大学医学部でガンの研究を専門にやってきましので、皆様と一緒に、ガンを防ぐ方法について少し考えて見たいと思います。

最近テレビなどでも、ガンに限らず健康に良いといわれる自然食品の話題でにぎわっています。これらの報道は、時に批判的に見る事も大切です。まず、それらの健康増進効果が、科学的根拠に十分もとづいて得られたものかどうか。また動物実験などで得られた効果は、我々が食品から摂取する量で十分効果が得られるかどうか検討することです。また食品に含まれる成分でも、すべて安全というわけではありません。

自然食品の中で、科学的に抑ガン効果の証明のされた、二三の例を挙げてみますと、お茶のカテキン類があります。埼玉がんセンターなどのグループの調査によれば、緑茶を沢山飲んでいるグループではガンの頻度が低下している事を証明しています。

私の研究ではゴマに大量に含まれているセサミンという物質が肝臓ガンを防ぐことを証明しました。私は、お米は日本の古来からの大切な食糧と考えています。玄米の糠の部分に含まれるイノシトール6 燐酸は、色々なガンの発生を抑えます。米に限らず、穀物の全粒を食べることは健康に良いと考えています。

日本人はもともと玄米を食べていました。精米技術が明治三十九年に導入されて白米食が広がると、脚気が起るなど白米食の弊害がわかってきます。このような植物中の有効成分は、いわゆる抗酸化物質に分類され、体内で発生するフリーラジカルを消去することによりガンを抑える事がわかっています。同時に細胞の損傷を防ぎますので老化の防止にも有効です。

ガンにならないための方策について、色々と取りざたされています。例えば強い紫外線は皮膚ガンの原因となるので避ける。熱い食事は、食道ガンや胃ガンの原因になる。強い酒は食道ガンの原因になる。タバコは肺癌と関係があるなどです。

中でも食事の健康への影響は最も大きいと思われます。欧米化した食事、蛋白質、脂肪の多い食事は日本人のガンの種類まで変えてしまいました。大腸ガン、乳ガン、前立腺ガンなど日本人にこれまで少なかったガンがこの数年増え続けています。私は昔の母が作った、米を主食とした、さっぱり系の食事が最高に健康にいいと思っています。日本食の欠点は、塩分が多く、高血圧の原因となり、胃壁を損傷し、胃ガンの頻度を高めていました。塩分をひかえめにした日本食は理想的な健康食です。カロリーの大半を蛋白質や脂肪が占める西欧化した食事は日本人の高脂血症、糖尿病、通風など急激に増やしてしまいました。このようなガンにかかりにくい食生活はガンだけでなく同時に生活習慣病の予防に有効であることは間違いありません。しかしガンの発生をゼロにすることは出来ません。

それでは、ガンにかからないための現在一番有効な方法は何かと聞かれれば、今でも早期発見であると答えるでしょう。

ガンは一つの細胞に由来して、それがネズミ算的に増えたものです。目に見えないほど小さい細胞が、何度も何度も分裂してマッチの頭くらいの塊になるまでに、相当な時間を経過しています。一年くらいはかかっていると思われます。これが、小指の頭くらいに成長するには一年はかからないでしよう。ガンは全ての臓器に発生する可能性を持っています。ガンは塊を作り、灰白色をしています。胃に発生すれば、ピンク色の正常の粘膜の中に不規則な塊として識別できます。ガンには初め痛みも何もありません。本人は全く気が付きません。ガンが増殖して、近くの臓器に浸潤し、転移をおこして、初めて、痛みなどが出現するのです。そのとき多くは手遅れです。

会社や市の健康診断で、血液を取って調べてもらった方も多くおられましよう。僅かな血液で、主要な内臓の機能をすべて知る事が出来ます。しかし、この検査は、ガンがあるかどうかに関しては無力です。ただ前立腺特異性抗原(PSA)は有効です。極めて高感度に前立腺ガンの可能性を予測できるので、何かのおりに調べてみてください。

以上お分かりのように、ガンの早期発見は、ガンを眼で直接見て確認するしかないのです。勿論CTや最近注目されているPETTも有力ですが、ガンの存在を確認する手段にほかなりません。

 また、ガンの頻度から考えて、起こり易いガンを重点的に調べるのが能率的でしよう。胃ガンは、内視鏡で比較的簡単に調べられます。ガンが成長する速度から考えて、一年に一度調べれば、まだ小さい内に手術で切り取る事が出来ます。同じ事が大腸のガンにも言えるでしょう。

私も暫く前、大腸に大小数個のポリープが見つかり、内視鏡的に切除してもらった事がありました。そのうち一つはガンでした。ガンになる予備軍は私の腸にはたくさん出来ているのです。それが、次々と眼に見えるまでに成長するのです。そのまま、放置しておけば、いずれ広がって切除不能のガンになりうるのです。肺癌は、厄介なガンです。胸のレントゲンで見つけられる頃には、相当進行しています。大きな施設では、最近へリカルCTという新兵器を導入して肺ガンをより早期に発見できるようになりました。乳ガンはわが国で増加傾向にありますが、触診などで調べ易いので、検診を受ける価値があるでしょう。子宮ガンも同様です。膵臓、胆嚢、腎臓のガンは、CTなどで偶然一センチメートル位のガンが見つかることもありますが、早期に見つけるのが難しいガンです。多くは症状が出てから気が付く事になります。脳腫蕩など、症状が出る前にはまず発見できません。このようなガンは、ガンの中でも頻度が低いので、もしなってしまったら運が悪いと諦めるしかないと思っています。





祭りは全会員の行事・私の自治会活動の原点

3区 青山 秀雄

 昭和49年頃だろうか、2区で順番の組長を受け、赤十字の募金や回覧板をまわすこと等が活動のスタートでした。

夏祭りを楽しみに自治会館へ行くと、えっ、これが祭りなの?私たちは何をするのか?居場所は?「任期までは我慢、脱会しよう」、例え様のない淋しさを胸に帰宅。しかし、時間の経過と共に次の役員に同じ思いをさせてはいけない。せめて、子ども達には駅前を「自分達のふるさと」としてのびのび成長してほしい。そんな思いを強くしている時に、自治会の改革「駅前自治会全会員が実感できる夏祭りにしよう」「参加しやすい環境づくり」を真剣に訴える大久保さん、松本さん、渡辺さん、今は亡き井川さん達に声をかけられ意気投合。さっそく、一人でも多くの方に声をかけようと動き出す。

丁度、二代目頭領の石川さん手作りの神輿が寄贈される話。多くの議論で障害を克服、受け入れ決定の報。休日は神輿磨き、彫金打ちつけ、担ぎ棒の檜丸太加工など、石川さんの倉庫で汗を流す。そこでは菅井さんに出会う。あまりの器用さから大工さんと思いきや警察官。職業、年齢の違いを超えた地域の力、支え合い、ボランティア、まさにこれが自治会活動。付属品、飾り付け等の一大寄贈活動。祭り半てんも揃えてと年々盛り上がる。生の丸太が肩に食い込む痛さも目に入る汗の痛さも「ソイヤ」のかけ声、応援に押されて練り歩き。祭り会場は賄いの女性群、売店を盛り上げるソフトボール部、子ども会、中学部、ときわ会。夜は盆踊りに老いも若きも一同の輪。そしていつも手作りの美味しい料理。賄い所をまとめていた菅井さんや協力者の姿。「会場に来た方には必ず缶ビール一本を!!」。当時の役員の方々の心配りなどが今の自治会活動にも生かされていると思います。
 
ソフトボール部、運動会常勝、冬のもちつき、廃品回収、町内一斉清掃、交通防犯部・婦人防火隊の活躍、マーチング部の結成、子ども達がリアカーを引き手伝う、もちをつき、顔を白くしておばあちゃんにもちの丸め方を教わる姿などもありました。マーチングも廃部の危機をのりこえ継続、市の行事等でも活躍。その姿を見る度に、マーチング部とその育成に献身的な努力を続けてきた板橋先生、高橋先生、しっかりと継承し指導している現役員の方々を誇りに思います。「石ころでも自然に育つ花を大切に」と交番前交差点横の花壇づくりに汗を流した森田さん・村上会長の姿など、多くの方々の活動を通して、地域の子ども達は勿論、私自身も多くを学ばせていただいたと思います。

皆さんと活動する中で拝島駅や周辺の狭隘さなど身を持ち体験できた事が、橋上駅舎化、自由通路の建設改善への大きな力となったと思います。私は「市内一の自治会」と常に感じ、今尚、皆さんと活動できる事に大きなよろこびを感じています。黒柳さん、松本さん、小沢さん、故田中さん、関口さん、村上さんの各会長の苦労とそれぞれを支えた役員や協力されて来た会員の方々に頭が下がります。まだまだ紹介したい活動や協力者が沢山ありますが、字数の関係で、一部しか紹介できなかったことが心残りです。結成56年、先輩方の築き上げて来た自治会を思う時、「水を飲む時、井戸を掘った人の事を忘れるな」のことばを自らに言い聞かせ、今後も手足になり協力できればと思います。





スープの冷めない距離

3区 岩渕 育子

拝島駅前自治会の人たちはその名の通り拝島駅を中心に暮らしている。いわば、みんな拝島駅とスープの冷めない距離に暮らしているということになる。だから、みんな駅にはとても関心が高い。その拝島駅がこれから大きく変わろうとしている。橋上駅になり、念願だった南北自由通路ができ、エレベーター、エスカレーターも設置されるという。駅前広場も作られるとか、どんな風に変わるのだろう。みんなワクワク、ドキドキ、期待と不安に胸を躍らせているのではないだろうか。

この自治会内もここ10年で大きく変わってきた。道路が広くなり、工場がスーパーや大型店、マンション、総合病院に変わり、人の出入りも車の数も多くなった。また、新しい道の計画も進んでいる。住民の数は増えているのだろうか。少子化といわれている現在、子供の数はどうだろうか。

一昨年、我が家は15年間住み慣れたマンションの8階から一戸建ての家に引っ越した。自治会の人たちからは、「空中から地面に下りた感想は?」などと聞かれた。7区から3区へと自治会内での移動だったので、近所に知り合いも多く、何も心配しなかった。8組の立ち上げも自治会の方々のお力でスムーズにまとまり、地面に下りた今も、楽しく拝島駅前ライフを過ごさせていただいている。

そもそも拝島に住んだのは、ただ通勤に便利だったからだ。この地に親戚も知人も居なかった。自治会に入ったのも「マンションの住人は全員自治会員になる」というルールに従ったからだ。だから最初は活動にはまったく関心が無かった。組長も経験したが何も分からないうちに一年が過ぎてしまった。かかわるようになったのは子供が生まれてからだ。この地に縁もゆかりも無かった我が家は、まず産婦人科の病院がどこにあるかも分からなかった。同じマンションの隣人に良い病院を教えてもらい、そのうち小児科などいろいろな情報を集めた。少し大きくなると公園デビュー、幼稚園など世界が広がっていく。

 このころから自治会とのかかわりが始まった。夏祭りに参加したり、当時は餅つきも楽しみだった。そしてまず子供たちがマーチングに入った。子供が小学校に入ると子供会が始まる。その後ずーっと自治会とかかわっている気がする。マーチング、子供会、PTA、数々の役員も経験した。つくづく人と人とのかかわりは大切だなと感じている。

前にもふれたが、我が家は近くに親戚はない。でも今は駅前に住んでいる人全員が親戚のような気がし始めている。会長はとても頼りになるおじいちゃん、そのほかおじちゃん、おばちゃんがたくさん、みんな親戚のような気がしている。
最近、子供が被害者になる悲しい事件が多発している。子供を取り巻く環境もずいぶんと変わってきた。24時間営業のお店も増えた。塾などで夜遅くなる子供も多い。昼間だって決して安全とは言えない。学校でも子供の安全についてのさまざまな取り組みが始まっている。地域の人たちもそれに力を貸してくださっている。とても感謝している。子供たちは地域ぐるみでなければ守っていけない。子供たちを犯罪の被害者にも加害者にもしてはならない。今ほど地域の力が必要なときは無いと思う。子供たちを本当の孫や親戚の子供たちと思って見守っていただきたいと願っている。だって、みんなスープの冷めない距離に住んでいる親戚のようものなのだから。



グッドモーニング

            4区 川崎 健一郎

 かれこれ30年余り前のことである。大阪のホテルで朝わたしがエレベーターに乗り込んだ時、そのエレベーターには10才余りの男の子とその父親(おそらくアメリカ人だと思う)とが乗っていた。そしてわたしが乗り込むと同時に、その父親がわたしに「グッドモーニング」と挨拶(あいさつ)したので、わたしも勿論すかさず「グッドモーニング」と応えた。するとそのエレベーター内には爽やかで和やかな空気が流れたような気分になった。

 考えてみると、その外国人とわたしとは初対面であり、しかもその後二度と会うことは無いと思う。それなのにその人は「グッドモーニング」と挨拶したのである。ところが現在の日本では、知り合い同士ならば「おはよう」と挨拶するかも知れないが、知り合いでもない人に「おはよう」と挨拶する人はいないナア、と思っていたら「さにあらず」であった。

  不思議なことに―全く不思議なことに―やはり30年余り前のこと、鮎釣り(友釣り)のために、わたしは伊豆の河津川の堤防を歩いていたところ、早朝に刈った草を入れた(かご)を背中に背負ったおばさんが、わたしとすれ違う時に「おはようございます」と挨拶したのである。勿論わたしも「おはようございます」と応えたが、そのおばさんもわたしの知り合いではないし、おそらくその後二度と会うことはないであろう。にもかかわらず、「おはようございます」と言ったのである。

 以上二つの体験から、わたしも積極的に挨拶をするように心掛けるようになった。結局のところわたしは、30年余り前に大阪のホテルのエレベーターと、伊豆の河津川の堤防と、二ヶ所で挨拶の基本を教えられたことになったのである。サテ、ここらでわたしが当自治会の会長さんである村上氏とお近付きになった話をしよう。きっかけは、やはり「おはようございます」のことばだったのである。

 平成16年の夏の間、わたしは早朝の涼しい時間に散歩をしていたのだが、その際いつも歩道や植込みのゴミを拾っている人を見掛け、感心な人だナア、と思っていた。するとある日たまたまごく近くでその人に出会ったので、わたしは「おはようございます、いつもご苦労様です」と声を掛けたところ、その人が当自治会々長の村上さんだということが分かり、それがきっかけでお付合いしていただいているのである。

『あいさつは、ふれ合いのとびらをひらく(かぎ)である』これはわたしが創った標語です。『江戸街道』が『あいさつ街道』として全国にその名が知れ渡るように、みんなお互いに、積極的に『おはようございます』と言うように心掛けましょう。相手が知り合いか知り合いでないか、なんて関係なしにその日の朝出会った人すべての人に声を掛けましょう。『あいさつ街道』として全国的に有名になることを期待しながらこの稿を終わります。




ますますの隆盛を願って

6区 河本 玲子

 役員の皆様のご苦労とご活躍に心から感謝致しますと共に、厚くお礼申しあげます。

 夏祭りや、秋の運動会はとても難儀な行事だと思いますが、親睦を図る場としては大切なことであると痛感致しております。6区誕生の初期に役員を仰せつかり、たくさんのことを学ばせていただいたことや、それまでは親交がなかった町内の多くの方々と気軽にあいさつを交わせるようになったことなど、とりわけ運動会のおかげであったと感じてきました。

 黄色い鉢巻をつける事によって、結束力が芽生えるのでしょうか、互いに声を掛け合い、子供たちに、どんな時でも、がんばれ!---- と励ますと笑顔と自信顔を見せてくれます。

競技が始まれば、声援と歓声で夢中です。声を掛け合って楽しむ喜びは、笑顔とあいさつは、他でもつながっています。

 将来の子供たちにとっても、この町が誇れる故郷でありますように、大勢で楽しむ大運動会や夏祭りなどの行事がますます盛んになることを願っております。 



エッセイ・六十の定年からがおもしろい


1)土に遊んで

                              3区 山岸 信子

 子育てがボツボツ楽になり始めた頃、ライフワークとして焼き物をしてみたいと思っていました。

 76年頃、気のおけない友達と五日市方面へドライブしての帰り、小さな喫茶店に寄りました。一歩足を踏み入れた途端、陳列棚の食器に釘づけになりました。紛れもなく2年程前、立川のデパートで出会った作家の作品でした。その時求めた素朴な灰釉の小皿は、枝豆2、3、たくあん2、3切れ置いても誠に美しくこれまで大事に愛用して居りました。

 その作家が近くにおられる。矢も楯もたまらず、友人と勇気を出して門をたたきました。民家の離れに工房がありました。近くを流れる小川のほとりは秋海棠の群生地、今を盛りとピンクに輝いていました。そこのお二人の先生が温かく迎えてくれました。

 〇時間は自由です

 〇創る物は自由です、創造力を働かせることに意義があります

 〇陶芸に関する知識先行は感心しません

名称は「自由工房」です。

 勉強嫌い、型にはまりたくない私の性分、身体にゾクゾクと喜びが湧いて来ました。即入門、現在に至っています。以来工房通いは楽しいものでした。春山の得も言われぬ微妙な緑の新芽、夏の百日紅の街路樹、秋の錦織りなす山里、山眠る冬の墨絵の一幅を眺めながら、工房通いはアッという間に10年程たってしまいました。栗の実の落ちている庭先で、松、桜、梅の枝樹を燃やし出来た灰のあくと長石、石灰等を調合して景色を出す釉薬づくりも知りました。冷え込んだ朝でも粘土をねっていると手の皮膚がしっとりしてくる感触を覚え、自然の神秘さを感じさせてくれました。

そうこうしている中に、工房が国立市へ移ることになりました。何となく気おくれを感じながらも2、3度足を運んでみました。美大生や、作家をめざす皆さんが黙々と作陶に打ち込んでいました。その姿にすっかり立往生の気分です。主体性もなく、気の向くまゝ、楽しみながら漠然と歩んで来たことにショックを覚えました。好きな器に季節の物を盛り一服の茶をいただき、生活をエンジョイ出来ればなどと甘い夢をみていたようです。納戸の中は粘土の塊、無意識のデフォルメの作が一杯になっております。

そんな私を見て見ぬ振りで黙認してくれてきた夫には有難いことと思っております。時々作品を眺めて「ア、よくなってきたナァ」と言ってくれる時もあるようです。夫曰く、中国の老子の言葉に「大巧は若拙」−たいこうはせつなるがごとし、等と奥義のようなことを言ってくれます。実に味わい深いことのように思われます。

この国立の「自由工房」は駅から歩いて15分ほどのところにあります。春の桜、秋の黄葉、その通りの美しさが作陶の心をかき立ててくれます。まだまだ若いと思いたい自分ではありますが、老化現象予防の一助になれば有難いと思って居ります。


エッセイ・六十の定年からがおもしろい

2)四国巡り一人旅(徳島編V)

3区 保科 紀一

4日目 今日は平地を歩き、17番札所井戸寺から18番恩山寺へ向かいます。歩行距離約20km、ほとんど国道を歩きます。7時30分出発、井戸寺までは3km弱1時間もかからない距離です。それでは元気にと言っても足が痛いです。そろそろと行きます。徳島線国府(こう)の駅前を過ぎ左に曲がります。案内板に沿って歩きますが、自動車用もあるので要注意。

井戸寺8時20分着、マアマアの時間ですネ。この寺は住民が水に困っているのを見かねて弘法大師が清水の出る井戸を掘りあてたと言われています。早速お参りをし、納経してもらい8時40分次を目指して出発します。山門を出て東に向かいます。鮎喰橋を渡り、しばらく歩くと右に「蔵元公園」がありここでひと休み、あまりユックリもしていられないのでスタートしましょう。歩き出しが痛いですネー。

徳島駅を過ぎ、阿波踊り会館によって見ます。立派な建物です、こんな格好で入るのが何か場違いなような気がする。皆さんきれいな格好をしてるのに、なんかみじめな感じ。そうそうに出発します。勝浦川橋を渡りやっと小松島市、後4km、がんばらなくちゃー。

恩山寺最後の登り、息がきれます。1時30分やっと着きました。この寺は弘法大師が修行中、母親が讃岐よりはるばる訪ねて来た時この寺はまだ女人禁制だったため、大師が解禁を祈念し母親を迎え入れ孝行したと言われています。今日はここまで。寺の下にある民宿に泊めてもらいます。時間が早いので足の様子を見たら、薄皮が破れ血がにじんでいた。明日は大丈夫だろうかちょっと気になる。

5日目 今日は朝から雨だ。マイッタネ、でもしかたないか。今日は山登りが2つあります。歩行距離24.3km少々 きついですネ。7時雨具を着て出発、立江寺までは4km弱、近いです。

立江寺7時50分着、昨夜タップリと薬を塗り靴下も2枚はいたせいか足の調子はいい。この寺は四国に四か所ある「関所寺」の1つ『 心がけの悪い人は山門から先へ進むことができない』とも言われています。でも私は進めました。心がけがいいのかな?8時05分立江寺を出発。7kmほど歩くと勝浦川に出る。左側にコンビニがあった。ここで昼用の菓子パンを買い込む。後は勝浦川に沿って「生名」まで約4km歩き、そこから山に入ります。少し歩くと左右にミカン畑が広がっている。白い小さな花を咲かせている。ますます登りがきつくなる。12時二十番札所鶴林寺に到着。ツカレター。この寺の由来は、弘法大師が修行中、つがいの鶴が金の地蔵像を守り運んで来たことから付けられたと言われています。

ここで昼にします。今日も菓子パンとお茶で済ませます。汗に濡れたシャッが急速に冷えて寒いこと。12時20分早々 に出発する。急な下りを那賀川まで下り水井橋を渡り、いよいよ太龍寺の登りとなります。沢に沿ってゆるやかな登りで歩きやすいが、沢から離れたとたんに急な登りとなる。なんでこんな高い所に造るんだとボヤキが出る。2時50分やっと着きました。今にも崩れそうな山門をくぐり境内の正面に階段が見える。その上が本堂らしい。疲れているのにまだ登らせる気だ。しかたないナ。登るか、ヤット登り、お参りをすませる。この寺で弘法大師19歳の時、100日間の山岳修行した場所「舎心ケ獄」が境内から600ほどの所にあり、弘法大師の座像が置かれています。

今日はここまでで、境内の下よりロープウェーで下り「鷲の里」なる宿にお世話になります。明日は又ロープウェーで登り、歩き続けたいと思います。今回はここまでとします、明日も頑張ります。

エッセイ・六十の定年からがおもしろい


3)私の歩み

    7区 大野 栄三

 私の故郷は、北海道有珠郡壮瞥町です。
皆様もご存じの元横綱北の海さんは、現在は日本相撲協会の理事長をされておりますが、ご出身は壮瞥町です。北の海さんは我が故郷の誇りです。 又、壮瞥町には、畑の中から突然噴火した活火山・昭和新山があります。近隣には、有珠山、洞爺温泉、登別温泉と地獄谷などがあり、豊富な温泉のある観光地としても人気の高い町です。毎年、冬のエベント・雪合戦が催され、テレビ等でも紹介されております。

そんな雪国で育った私は、子供の頃からスキーを楽しむ機会に恵まれていました。小学校4年生の時、壮瞥村主催のスキー大会に始めて参加し、4人1組の6校対抗たすきリレーに優勝し、その後も次々と3年連続して優勝の栄冠を掲げる事ができました。

中学生になると、自宅と学校の間4 キロを徒歩か自転車で往復する日々でした。そのお陰で足腰が鍛錬され、力強い体格がつくられたのだと思います。また高校生になってからも、学校までは片道4キロの道のりがあり、冬期間の大雪の中での通学は、東京の方々には想像も出来ないくらいの苦労が有りました。高校時代、全校生徒約600名のマラソン大会があり、1学年で18位、2学年で8位、3学年で念願の優勝を果たすことができました。

卒業後国鉄に入社し、その年の駅伝大会に出場してトップを走り、区間賞を取りました。その後東京に転勤になり、東京での生活が始まりました。遊びのつもりで、少しスキーを楽しんでおりましたが、職場の方の勧めもあって、本格的に競技大会を目標にして練習をはじめるようになりました。30才を過ぎた頃、もっと上手くなりたいと思い 滑り方に変化を加えたところ、技術的にも高度で安定感のある滑りが出来るようになりました。練習の甲斐あって、7年連続優勝という結果を出す事が出来ました。又、全国国鉄スキー大会に選手として出場し、3位入賞する事が出来ました。

今年64 才になりますが、冬はスキー、夏はテニス、ゴルフ、水泳と足腰を鍛えています。今年からソシアルダンスを始めました。60の手習いとよく世間では言われていますが、若い者には負けない気持ちでレッスンに励んでおります。ダンスパーテーが楽しみで、今から胸がわくわくしています。

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マンホール新街づくり夢馳せる

拝島駅前の街づくりを考える会 会長 深谷 和人

皆様ご存じですか? 50年位前までは拝島駅前地区に清らかな水が流れていた川があったそうです。

拝島駅北口には、いざという時に多摩川の水を都心に送る緊急水路の役割を担っている水路・玉川上水があります。

また、北側の水路から南口の江戸街道の地下を横断して崖の下の方に通ずる水路・玉川分水があり水が流れています。現在、この分水は全て蓋かけされていますが、昔は三箇所にも水車小屋があり、のどかな風景が見られたそうです。

先日、「拝島駅南口地区まちづくり検討会」のメンバーで「まちあるき」をして、地区の良いところ、改善したいところなどを調べました。分水路を隠した跡らしい細い道筋で発見したのが一つの「マンホール」でした。耳を澄ましてみるとゴーゴーと水の音がしていました。

この水路がどこを通ってどのように流れているものか、もう少し詳しく調べ、駅前地区のシンボルとして何らかの見える形にし、歴史を後世にも伝えられたらと思っているところです。

拝島駅は昭島市の西の玄関口として、また4本の路線の乗り換え駅として交通の要衝となっております。しかし、現状では駅周辺の道路や広場の整備が遅れており、景観や機能の点で必ずしも「快適な街」とは言えませんが、ようやく市街地再開発事業がスタートし、拝島駅南北自由通路の整備などが進んでおります。

明治27年11月に青梅鉄道(現JR)の青梅線として立川〜青梅間が開通し、当時の青梅線の駅は立川・拝島・青梅の3つだけだったようです。東西南北が一面桑畑の農地にできた駅を中心に住宅が建つようになり、拝島駅前商店街の街は今のような姿にまで発展してきたのです。

すでにスタートした駅舎の改築や計画中の駅前再開発が完結すれば、名実ともに昭島市の西の大きな玄関口としてさらに発展を続けることと思います。

これからも、地元の人達や行政の協力を得ながら、新しくできる拝島駅・駅前広場には、玉川分水の役割や拝島駅停車場通りの面影など歴史を伝えるモニュメントを配置し、憩いの場となるようにすることが、「拝島駅前の街づくりを考える会」の一つの大きな課題だろうと考えています。



楽しいこと

昭島市立拝島第三小学校 校長 原田 喜平

日頃から、自治会長さんをはじめ、地域の皆様方には、子どもたちの健全育成のために色々なご支援をいただき、本当にありがとうございます。

さて、この度、村上自治会長より、「教育に関する内容ではなく、趣味について書いてほしい。」というご依頼がありました。私的なことについて書くことはあまり気が進まないのですが、今回に限り、私が長年やってきた合気道について少しだけ書かせていただきます。合気道といっても知らない方が多いと思います。よく、「合気道ってどんな武道ですかと聞かれます。 聞かれても私も一言ではうまく答えることができません。また、「合気道は、気で人を投げるんですよね。気って何ですか。」と聞かれますが、気のことを言葉で説明することも、なかなか上手にできません。

難しいことはさて置き、私が合気道を始めたのは今から30年も前のことです。どうしてこんなにも長く続いたのかというと、第一の理由は、合気道の稽古で学んだことや身についたことが、日常生活において役に立つこと、二番目は、色々な職業や年齢層の人との触れ合いが楽しくできること、三番目は、家族の理解があったからだと思っています。

合気道の稽古では、力と力のぶつかり合いはほとんどありません。力任せに技を掛けても、力の強い相手には技は掛かりません。しかし、相手の立場に立ち、相手の気を尊び、相手と一体になって、相手が行きたい方向に導くと、簡単に動いてくれるので、力を使わずに倒すことができます。力で無理やり倒すのではないので、倒す方も倒される方も気持ちよく稽古ができます。これが合気道の極意と言っても過言ではありません。要するに、相手を理解し、優しく導いてやること、思いやりが大切だということです。

このようなことは、日常生活においても同じではないでしようか。こちらが相手を力でねじ伏せようとしても、人は誰も動いてはくれません。相手を思いやり、優しく話しかけることにより、理解して協カしてくれるようになります。

 いま、武道が静かなブームとなっているようです。合気道は老若男女、誰でも体力に応じて稽古できる武道です。美容と健康にいいと女性にも人気があります。とくに外国の方が興味を持ち、稽古に来られます。私が稽古しているところでも、現在3人の外国人が一緒にやっています。英会話のレッスンが無料でできて一石二鳥だと喜んでいます。 私はこれからも、年齢を忘れて、若者たちと一緒に楽しく合気道の稽古を続けていくつもりです。そのことが自分を成長させ、より充実した教育活動の実践につながると信じるからです。

                                   「障害をもつ方々との出会い」

      東京都昭島生活実習所 所長 山下 正知

 私が勤務する昭島生活実習所では、重度の知的障害をもつ方々が、健康づくりや革工芸、陶芸、音楽など様々な活動を行いながら毎日を過ごされている。「重度の知的障害をもつ方」と一口に言っても、それぞれの人となりは、まさに個性的、千差万別であり、とても一つの枠に括れるようなものでない。それらの多様な強い個性、異なる人間的魅力をもつ方々が、なんとか折り合いをつけながら、限られた所内で、日中の集団生活を送られている訳である。

 私がここに赴任して約二年、毎日毎日が実習所の利用者の方々との新しい出会いであり、新しい発見であるように思われる。一期一会という言葉は、本来は一生に一度の出会いということかも知れないが、ここでは毎日が一期一会に思えてくる。

 改めて振り返ってみると、障害をもつ方々と仕事の上で接するようになってから、既に三十年以上になるが、その中では実に様々な出会いがあった。特に忘れられないのは、大学を出て福祉の仕事に就いた直後に出会ったサリドマイドの薬害による障害(両上肢の欠損)をもつ子供たち。重い障害をもちながらも、とても元気で快活な姿に接して「障害福祉」という言葉を初めて実感した。また、多少の経験を積んで「障害福祉」の世界が何となく分かったような気持ちになっていた十数年前に初めて出会った盲ろう(視覚と聴覚の重複障害)の方々。視覚障害の方々や聴覚障害の方々とはまったく異なる、触覚だけで外の世界とつながっている方々の存在を知ったことは、私にとって本当に大きなカルチャー・ショックだった。

アメリカの有名な盲ろう者であるヘレン・ケラーのことなら「奇跡の人」という映画でも広く知られており、当然、私も知識としては承知していた。ただ、自分が日常的に接していた「障害福祉」の世界の中に「盲ろう者」という存在が完全に欠落していたのである。この出会いの日から、私は盲ろう者への支援策に全力で取り組み、様々な方々の理解や協力も得て、二年後には、我が国で初めての盲ろう者への通訳派遣事業を実現することができた。これは、私の職業人生においても貴重な経験であり、それ以来、公私にわたる盲ろうの方々とのお付き合いは、現在まで続いている。つい先日も、「東京盲ろう者友の会」という関係団体の設立十五周年のイベントがあり、懐かしいメンバーの方々と楽しい時間を過ごすことができた。

 障害福祉の仕事をやってきて、最も惹かれることは、障害をもつ様々な方々と出会うことであり、その人間的魅力に触れ、知識や元気を頂くことが、仕事に不可欠というだけではなく、人間としての自分の成長の原動力ともなっている。これからの人生の中でも、まさに一期一会を大切にしていきたいものである。 



研修旅行に寄せて

中学生部会 代表 山辺 三奈美

梅雨の晴れ間、絶好の研修旅行日和になった6月19日。善光寺方面へのバス研修に参加させて頂くことになりました。

 子どもが生まれ、子どもの成長と共に、子ども会・マーチング、そして中学生部会と地域の方々と触れ合う機会も増えました。自治会にデビューした当時は、失敗しないように肩に力が入り動いていた私でしたが、行事や催しを通して失敗しても温かい目で見守ってくださる先輩方の気持ちが、私の無駄な力みを取り去って下さいました。仕事を持っている私にとって、拝島という町は寝るための場所という意識だったのですが、今では駅前が一つのファミリーのような存在になりました。

 また、研修という企画も、同じ釜の飯を食べ、同じ目的で一日同じ行動をするということが、心を近づけ、夏祭りやブロック運動会等のときの団結力を生み出していく効果があるのだと思えるようになりました。

 さて、善光寺では一つの貴重な経験をすることができました。善光寺の本堂の下には、往復約五分間ぐらいと思うのですが、暗やみの中を壁づたいに歩き、突き当たりにある錠前のようなものを回して戻ってくるという修行場があります。それが極楽へ行くための修行の一つになるのです。参加者は行列をつくり進んでいくのですが、前にいるはずの人の姿はまるで見えず、感じるのは気配のみ。漆黒の闇、初めての体験でした。ゴールのわからない不安感の中で頼りになるのは、一緒に参加した仲間の「錠前はもうすぐよ!」と言って、私の手を導いてくれる暖かい手、「あと少しで出口になるわ」という声なのです。

 現代の町は一晩中生きています。大型店やファミリーレストラン、そしてコンビニエンスストアーは24時間営業。そんな生活スタイルに慣れている私は、この闇の世界でふと、天災ということを連想したのです。地震になったら私達の町も夜になれば闇につつまれるのでしょうか。そんな極限状態になった時、やはり頼りになるのは同じ地域に住んでいる人達のはげましの声、そして助け合い…。それを可能にするのが、日々の小さな積み重ねである自治会の活動ではないかと思えたのです。とかく自治会活動を敬遠しがちな世相になっていますが、この極楽への修行は自治会の存在を見直す良いきっかけになりました。

 ただ、研修という企画が、子育て真最中の方、家族を介護なさっている方にとって、貴重な一日をあけるという点で大変であることは言うまでもありません。企画してくださっている役員の方々の御苦労、心配りにも頭が下がる思いで一杯なのですが、主婦という立場から隔年ごとに研修の形態をかえ、短時間の参加ですむ企画も計画していただけたらと思うのです。

 最後に、一年間未熟な中学生部会の役員である私たち五人を支えて下さった先輩役員の皆様方本当にありがとうございました。自治会活動にこれからも参加させていただく時、大変と思わず、自分自身が楽しんでしまおうと考えています。

子供会の世話役を経験して思ったこと

子供会世話役代表 小坂 静子

我が家の長男・次男は地域のサッカーチームに入り、友達と共に仲良く楽しいサッカー活動で小学校生活を過ごしました。子供会にも6年間所属していましたが、サッカー活動を優先し、殆んどの子供会行事に参加しない状態でした。退会しようかとも考えましたが、夏休みのラジオ体操やサッカーと日程が重ならない行事には参加したいとの子供の思いもあり、当時の世話役さんにご迷惑と思いつつも在籍させていました。一方、末っ子の娘はそうした事も無く、ご近所の友達と共に子供会で楽しい活動をさせて頂いています。

結婚後に拝島に越して来た、地方出身の私たち夫婦にとって「子供会」 は昔お世話になった楽しい思い出のあるとても身近な存在でした。子を持つ親となってもこの意識は変わらないものの、環境の変化というか時代の趨勢というか、「子供会」が担う役割の変化や難しさを感じていました。

こんな私が、昨年のくじ引きで子供会の世話役代表になってしまいました。戸惑いと不安でくじけそうにもなりましたが、ご一緒した世話役の皆さんに支えられて何とか1年間を過ごす事ができました。「背伸びしてもしようがない!、出来ることを精一杯やろう!」との気持ちでお手伝いしてきました。

夏祭り・青少年フエスティバル・ふるさと祭りなどに参加して、子供たちと“チョコバナナやサンディ”等を作ったり、廃品回収で一緒に汗を流したり… 、みんなで楽しい経験をする事ができました。

子供会は「子供たちが競争意識を感じる事なく、地域の人と楽しく交流できる場」である事を認識できた貴重な体験でした。自治会の皆様、子供会世話役の皆様、近隣の皆様に心から感謝しています。そして、一緒に活動してくれた子供たちに“ありがとう”の気持ちで一杯です。

 夏祭り

                              3区  桂 子

大小の神輿並べて夏祭り      ・焼き鳥の熱さ頂く夏祭り

・納涼をヒョットコ肩を又すくめ    ・夏祭り提灯赤く天にさげ

・カナカナがかなかな鳴いて夏祭り  ・エッサエッサ神輿をかつぐ声一つ

・焼鳥の匂いうずまき夏祭り       ・夏祭り舞うヒョットコの顔みたや