巻頭言
東京大空襲パネル展を観て

                  相談役 関口 留吉

 昨年、一昨年と2回に亘り先輩の方々が、主に自治会活動のことをを中心に記事を寄せておりましたが、今回は戦後60年を迎える節目の年でもありますので、私は終戦の頃の想い出を取り上げてみました。
 昨年の春、あきしま広報で東京大空襲のパネル展の案内を見つけ、仲間3人と誘い合って、展示会場となった昭島市庁舎第1ロビーに出かけました。そこには本当に忘れることの出来ない悲惨な光景、焦土と化した東京の当時の姿がありました。昭和19年初頭日本軍がマリアナ海戦で大敗した後、米軍及び連合軍はサイパン、グアム、テニアン(俗に知られたマリアナ)基地群を手中に治め、ここを拠点にした空襲攻撃により日本軍のあらゆる施設を破壊した後、都市への無差別攻撃へと移行したのであった。
 その一例が東京大空襲であり世界史上最大といわれるものであった。空襲の気配を察知した東部軍管区司令部の情報はラジオから流れた。昭和20年3月9日22:30警戒警報が発令されたが、東京上空に飛来した2機のB29が房総沖に退去したとして警報は解除された。しかし退去はみせかけで、都民が安心した10日00:08に第一弾が投下された。東部軍管区司令部はまだ気付いておらず、当然ながら空襲警報も鳴らない。00:15空襲警報発令、それから約二時間半にわたって波状絨毯爆撃が行われた。
 大量の焼夷弾を搭載した344機のB29の大群が、房総半島沖合から単機または数機に分散して低高度で東京の下町に浸入した。B29の先発編隊が江東区・墨田区・台東区にまたがる40kuの周囲にナパーム製高性能焼夷弾を投下して火の壁を作り、住民を猛
火の中に閉じ込めて退路を断った。ぐれん紅蓮の炎の中を逃げまどい、熱さに耐えきれずに隅田川に飛び込み命を落とした人々、性別もわからないような一塊の炭と化すまでに焼き尽くされた人々の数は10万人以上に達したと言われる。
 今日の平和と繁栄がこうした犠牲の上に築かれたことをパネルの前であらためて思い起こしながら、犠牲になられた方々のご冥福を祈った次第である。
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役員研修旅行(潮来十二橋・鹿島神宮めぐり)
                   事業副部長  加藤 久之

 平成16年6月20日(日)朝、拝島駅前マルキタ店の前に集合した参加者38名は、チャーターした立川バスに乗り7:30に潮来に向かい出発した。
 10:40〜潮来十二橋巡り 常陸利根川べりから出航する、サッパ舟と呼ばれる、沼や湖などで使用する平底の小さな舟、2艘に分乗し、ゆっくりと水郷の情緒を味わった。
 12:00〜潮来冨士屋ホテルにて昼食
 13:20〜鹿島神宮参拝  鹿嶋は、ジーコが広めたブラジルサッカーの由緒あるチ
ームが発祥した町。また歴史の彼方にさんぜん燦然と輝く不思議の地。鹿島神宮は、古代において
かなり重要な位置を占めていたという。九州の防備にかり出された"さきもり防人"たちは東国の
出身者で固められ、ひたちくに常陸国の人々はこの鹿島神宮にお参りに連れてこられてたそうだ。ま
た、大化の改新で有名ななかとみのかまたり中臣鎌足はこの鹿島出身だとか。70才前後でリタイア後のボランティア案内人と思われる男性から、バスの出発時間間近まで実に丁寧な説明をいただいた。それで奥の院まで散策する時間が無くなったのは、一寸惜しい気がした。
 20日午前0時には大型で非常に強い台風6号が、那覇市の南東約190キロの海上を時速約20キロで北へ進んでおり、沖縄本島が風速25メートル以上の暴風域に入っていた。22日夕までの予想雨量は四国・九州の太平洋側で500ミリ、東海・近畿南部で300ミリ、沖縄・奄美諸島で250ミリ。関東でも21日に一時雨が降ることが予想されていた。幸いにも研修旅行は台風接近に殆ど影響されることなく、全員無事に、予定通り18:30には朝の出発点に帰ることが出来た。
 今年から事業部担当を希望し、小沢・下田両副部長と共に森田部長指揮の下で、初めて取り組ませていただいた大きな事業が、天候に恵まれ、参加者の暖かい視線に支えられ、及第点に達したものと思えたことに安堵した。中身が観光旅行に近いものを研修とはいかがなものかとみるむきも無いとは限らないが、自分としては、永年続いてきた研修旅行は、特に新しく組長などになられた方々が自治会にもっと溶け込んでもらう契機となる、素晴らしい企画であることを実感した。帰りのバスの中はさながらカラオケボックスと化し、皆さんの歌唱レベルの高さにうっとりし、また高橋音楽研究所の一男先生のリードによる童謡の合唱では皆といっしょに声をはり上げた。楽しい一日を有り難うございました。
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平成16年度体育部活動報告

                 体育副部長 梅宮 次男    

 体育部の平成16年度の活動について報告をさせて頂きます。以下に報告致します球技大会と大運動会が体育部の任務となります。これらの競技は11ブロック内の5自治会で
5年に一度回ってくる当番町会が主担当として運営に責任を持ち、その他4自治会が協力をして、開催されます。

1.第11ブロック親睦球技大会
   種目:ソフトボール/ビーチボール/ゲートボール
   成績、開催日及び場所:ソフトボール;雨のため中止
              ビーチボール;優勝、6月6日、拝島中学校体育館
              ゲートボール:3位、6月12日、緑ヶ丘公園予定地
 6月6日当日は朝から今にも降り出しそうな空模様で、何とか開会式は済ますことが出来ましたが、競技開始の準備をしている間にとうとう雨が降り出し、残念ながら、ソフトボールは中止、ゲートボールは次週に延期となりました。このため競技のなくなった選手の皆さんには体育館で開催されるビーチボールの応援をして頂きました。子供会のお母さん方をメインに構成されたビーチボールの選手の皆さんには見事優勝の栄冠を勝ち取って頂きました。ありがとうございました、と同時に、お疲れ様でした。
 ゲートボールについてはこの大会が親睦を目的としたものであるため、愛好会の皆様には競技指導等の支援に当たって頂き、選手には一般自治会員の方の参加がないため、愛好会会員でない自治会役員が参加しましたが、自治会員の方の中でゲートボールをやってみたいと思っていらっしゃる方は今年の大会に参加されては如何でしょうか?お待ちしております。
2.自治連第11ブロック親睦大運動会
   開催日及び場所:10月24日、拝島第三小学校校庭
   成績:優勝
 春の球技大会ビーチボール優勝に続きまして、この大運動会も選手の皆さんに頑張って頂き、拝島駅前自治会が優勝の栄冠を勝ち取ることが出来ました。

 この優勝は昨年度、平成15年度優勝に続く、2連覇となる栄えある優勝です。拝島駅前自治会の運動会2連覇記録は平成7年、8年に続き、2回目となります。平成16年度成績となる得点累計グラフでお分かり頂けます様に拝島駅前自治会は最初3位ないしは4位でスタートしましたが、徐々に順位を上げ、後半2位、3位で競り合い、最後から2番目の1400mリレーで1位同点となり、最後の競技2000mリレーで劇的な逆転優勝を勝ち取りました。優勝までの各競技の手に汗握る感動を今でも忘れることは出来ません。優勝の功労者はもちろん各競技に参加頂いた選手の皆さんですが、この優勝は自主的に参加して頂ける方だけでは選手の定員が埋まらないために豊富な情報で毎年選手の確保をして頂いている6区の村野さんや昼食準備や賄いを担当して頂いたお母さん方、応援に来て頂いた方等、自治会皆さんの協力の賜物と思っております。ありがとうございました。

 以上申し上げました様に、球技大会、運動会共優秀な成績をもって、平成16年度を終了することが出来ました事、感謝致しております。4月から平成17年度が始まりますが今年度同様、春の一日、秋の一日を、一緒に感動を感じて過ごせたら、と思っております。多数の方の参加をお待ちしております。
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研修旅行に参加して
                3区 高橋 邦男

 6月10日(日)少し蒸し暑い感じの日でしたが、日帰り旅行には申し分のない日でした。バスは会員38名を乗せて、高速道路をひた走り潮来へと向かいました。
 途中渋滞もなく幕張APで休憩の後、東関東自動車道で利根川を渡ると、車窓を通して水辺の花々が目に入り、水郷の雰囲気が伝わって来ました。定刻より早く潮来に着き、舟
つき場で記念写真を撮った後、水郷の定番「サッパ舟」に乗り常陸利根川を横断しこうもん閘門にたどり着きました。閘門は水位の違う河川の水位調節の場所で、しばらくすると水位は50pくらい下がり水路に入りました。いよいよ十二橋めぐりです。船頭さんの竿はゆっくり進み、いくつかの小さな橋の下をくぐって行きました。両岸の所々で花菖蒲やアジサイが咲き乱れていて、水郷情緒を漂わせていました。やがて水面の広い与田浦に出ると舟のエンジンが全開し、水しぶきを上げて進み爽快な気分を味わいました。
 昼食場所の旅館では、飲みながら食べながら話に花をさかせました。そして次の目的地鹿島神宮へと進み、ここではボランティアガイドさんの説明を聞きました。創建は「神話」に由来するものとのこと、境内にある御影石の大鳥居、朱塗りの桜門、柿葦きの本殿などは、貴重な文化財で歴史の重みを感じるものでした。
 帰りの車中ではカラオケを楽しみながら過ごし、終わってしばらくすると拝島駅前の町並みでした。
この日の研修旅行では、日頃挨拶を交わすだけだった方々とも、親しく話す機会があり楽しく過ごす事ができました。これも偏に役員の皆様のお世話があってのこと、ありがとうございました。
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「拝島駅前お祭り音頭」の振り付けに寄せて
                2区  岩佐 二郎

 昨年の5月の終り頃、村上自治会長から"今年の夏祭りの盆踊りには、「お祭り音頭」も、子供から大人、町内みんなが参加して踊れるようにしてはという声が多いので、是非振り付けを考えてもらいたい"というお話を頂きました。
 当初はとまどいましたが、自治会の最大行事である夏祭りは、例年、夏祭り実行委員会の体制の下、会員総出のかたちで取り組まれていることに感謝の意味を含めて、7月末の発表会を目途に、振り付けの編成を頑張ることになった。
「お祭り音頭」は、平成14年の7月に会員で有識者でおられる高橋一雄氏と伊藤寛氏の両先生によって作詞作曲され、「駅前タンゲバンド」の有志により企画演奏されテープに納められており、既に平成14年度と15年度の夏祭りでは、昭島音頭などと並んで会場に流れていた。
 振り付けの検討に際して、テープを再生しながら全体のイメージ作りを行い、歌詞の1番から4番にわたり強調する点や、それを曲として盛り上げているアクセントの節などに注意を払い、作詞・作曲の両先生のお気持ちとお考えを表現することを念頭において構成を考えることにした。例えば、歌詞(「−−−−」)との関係から「みんなの力で築いたやぐら」を浴衣姿で、子供達とともにお隣同志や仲間同士が「明るい笑顔」で「踊りの輪」を作って賑やかに踊り、そのまわりには「張り切る出店」で舌づつみを打ちながら「酌む祝い酒」で「楽しむ仲間」で集う幸せのひとときを。そして、お祭り広場を出て町内を廻る「すてきな帽子」が良く似合うマーチングバンドの行進、響く太鼓に送られて「ワッショイみこしにちびっ子山車」が続くなど、主な歌詞からの情景をイメージして、手足の運びを曲のテンポに併せ振り付けを組み上げた。
 暑い盛夏の7月に入って漸く依頼された「お祭り音頭」の振り付け案ができ上がり、自治会で公開練習日として定められた7月31日に、拝島第三小学校の視聴覚室を特別に借用して発表することができた。そして8月の夏祭り盆踊り用として、従来からなじんできた炭坑節や昭島音頭などの踊りに仲間入りすることができた。3日間の練習日と本番の2日間にわたり、子供達をはじめ町内の皆様方によって踊って頂いた。
 この皆様こぞって参加している姿を拝見したとき、「拝島駅前お祭り音頭」が夏祭りの度に流されて踊られる中に、新たなふれあいが生まれ、やがては地域の絆に役立つことを願うものである。
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新撰組のふるさとを訪ねて

               青少年部長  宇野 素子

 10月9日、折しも台風模様の天候の中、拝三小地区委員会、広報部会で企画されたバス研修旅行が行われた。
 NHKの大河ドラマ「新撰組」に因んで「近藤勇と土方歳三ゆかりの地を訪ねて」ということで、バスは先ず日野にある土方歳三の墓地、石田寺へと向かった。
 朝方はかなり横なぐりの雨に悩まされたがバスを降り石田寺への小道を歩くころには、雨も小止みになり心配された大荒れの台風も速度を緩めて私達の見方してくれているようだった。
 苔むした墓石の立ち並ぶ真言宗石田寺には、土方家由来の墓が多く、又土方歳三の顕彰碑もあり、毎年5月の第2日曜日には歳三忌が行われているそうである。
 それにしても幕末の剣客として、28才の時に新撰組に入り、副長として京都市中の護衛に当たり功績を認められるが、王政復古のクーデターにより徳川幕府が消滅するという時代の変革の激流に流され、34才という若さでこの世を去らなければならなかった若き志士の胸中を想うと胸があつくなった。思わず墓に手を合わせ、まさに凝縮された一生を疾風のごとく駆け抜けていった一人の青年の姿を思い浮かべつつ石田寺を後にした。
 次に向かったのは日野宿本陣である。現存する建物は、1863年に佐藤彦五郎が建てたもので、後の新撰組局長となる近藤勇や副長の土方歳三、沖田総司らが激しい稽古に励んだ「佐藤道場」があった場所である。
 かつては大きな本陣と脇本陣が長屋門を構えて建っていたが、大正15年の大火で長屋門を消失、現在は本陣建物だけが残されている。都内に現存する唯一の本陣ということで、貴重な文化遺産となっている。
 18畳の大広間に座って、係りの方のお話を聞かせていただいた。雨戸は僅かに外を透かして見られる様、細工が施されている。又欄間は、春夏秋冬を表す木彫が美しく、止め金の逆さこうもりは福を招くという言い伝えがあるらしい。先人達の細やかな美意識に感嘆し、天然理心流という剣術を磨き合った人々の熱い思いが心をよぎった。
 この日野宿本陣は、リニューアルされ、春以降、未公開であった3部屋と裏庭を公開し、又、映像室も準備中との事で楽しみである。
 最後に、日野市ふるさと博物館で新撰組の誕生から終焉までを色々な資料を見ながら辿ることが出来た。
 高幡不動尊の近くの店で、開運そばを食べながら、参加された地域の方々と親しくお話ができたことも、大変楽しくとても有意義な研修旅行だった。
 台風接近という悪天候にも拘らず御参加下さいました方々、又旅行への参加を呼びかけて下さった会長さんに心よりお礼申しあげます。
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民生委員・児童委員の改選にあたって

                主任児童委員   平岡 聖子

 平成16年12月1日に、民生委員、児童委員が改選され、新たに委員を委嘱されました。駅前自治会地区の担当では、山岸信子さんが退任され、後任として山下清子さんが選ばれました。山岸さんには2期6年間にわたりお世話になり、深く感謝申し上げます。有り難うございました。
 委員の担当地区は自治会毎になっているわけではなく、駅前地区をカバーする4名の分担区分は次のようになっております。また山下さんは主に駅前自治会の地区を担当しております。

 山下さん:松原町3丁目2・3・4番、7〜12番
 日下部さん(緑ヶ丘自治会員):松原町2丁目1〜16番、3丁目1・5・6番
 仲谷さん(松原自治会員):松原5丁目1〜24番
 平岡:拝島中学校地区 児童問題専門委員

 民生委員は児童委員を兼ねているので、今は「民生・児童委員」という言い方をします。厚生労働大臣から委嘱された仕事は、「ゆりかごから墓場までの、地域住民の福祉の推進に関わり、守秘義務をもってあらゆる相談にのること」です。
 最近の大きな自然災害は、被害克服にとって地域力を高めることの重要性をあらためて私達に教えています。少し前までは、近所付き合いしないのが、洗練された地域と考える人が多かったようですが、今は、"そ知らぬ顔をしないのが地域力のある良い地域"だと変化してきました。求められる福祉も時代でどんどん変わります。民生・児童委員の仕事も昔とは変化しています。まずは身近な相談相手として私達を使っていただければと願っています。
 地域力のある拝島駅前自治会を目指して、自治会の皆様に感謝しながら、協力して一歩ずつ進んでいきたいと思います。よろしくお願い致します。
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エッセイ・六十の定年からがおもしろい(1)

1)「夫婦桜を植える会」に参加して
               1区  松沢 五代子

4月の末と言うのに寒い日でした。7時40分に八高線で拝島から八王子、中央線に乗りかえ'あずさ号'で10時13分に塩尻駅につく。とにかく寒い。待ち時間にスタンプを押すと、そこには"来る人にはやすらぎを、去りゆく人にはしあわせを"の言葉があり心が少し温かくなったような気がしました。
 鈍行でナギソ南木曾まで1時間40分。車窓から色々な草木の芽吹き始めの様子がゆっくり眺められ、いつもの忙しさから解放されのんびりとした気分になれたひと時でした。南木曾駅からシャトルバスでホテル木曽路にやっと到着。夜まで時間がありましたので二人でマゲットゴルフを楽しみました。夕食後参加者の親睦交流会があり、南は九州、北は福島から参加した25家族50名以上が集まり、それぞれ自己紹介などがありました。
 初孫誕生、銀婚式、病気快復、ご主人子供さんに先立たれての供養等々様々な人生の節目のお気持ちでの皆様でした。
 私達は、主人の病気がお陰様で快復した事とサファイア婚(45年)を兼ねての参加でした。当日の29日は昨日までの気候がうその様な雲一つない日本晴れで、汗ばむような一日でした。先ず神主様と共に「夫婦の桜献木植樹祭」の式典があり、全員で記念撮影の後スコップ肥料を頂き、指示に従って今までに植えられた桜の木の傍を通って、私達の桜の苗木の所まで行きました。途中には敬宮愛子様御誕生記念の桜も植えられていました。7年ものの桜を"サファイア婚桜"と名付け、二人で心をこめて根元に肥料を施し植えました。会長さんのお話ですと、この南木曾の"あららぎ苑"は日本の桜の指折りの名所として、訪れる多くの人々に勇気と感謝を与えられる場所にしたいそうです。
 ところで桜の木の花びらは、一本の木(20年もの)で何枚位ついているかご存知ですか? 大学生に協力して戴いて調べたところ(テレビで一部始終を見てました)、593,345枚もあったそうです。びっくりですね。
 青く晴れ上がった空、緑の山々、澄んだ空気、そして匂いに惹かれながらすがすがしい気分で帰途に着きました。来年も私達の桜と皆様に逢いに行きたいと思っています。健康で暮らせることに感謝し、"もうけものの人生"を満喫している昨今です。
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エッセイ・六十の定年からがおもしろい(2)
定年その後

              3区  菅井 孝

 日本人の平均寿命は、男性77.1才、女性83.8に達したという報道があった。自分にとっても、定年退職後の長い年月をどう過ごすかが課題であると考える。平成13年に42年間の第一の人生に区切りをつけ、第二の人生の岐路に立って、毎日が日曜日の道を選ぶか、もう一度拘束のある会社人間としての道を選ぶかを模索し、後者を選択したが、それもあと一年で定年になる。
 定年後の生き甲斐が豊なものとなるには、健康であること、経済的ゆとり・時間的ゆとり・人間的社会的つながりがあること、さらには家族の支えがあることが必要と思う。経済的ゆとりと言っても辛うじての僅かな年金が頼りですから、ときに訪れる孫に多少の小遣いをあげたり、夫婦して温泉旅行を年に一、二度楽しめる程度のことになればと思っている。
 朝起きたら女房はその日にやる仕事が沢山あるが、男は年をとるとすることが無くなると言われる。今までは仕事が趣味とまではいかないまでも、全く遊びのへたな無器用な人間であったかもしれない。しかし目的の無い生活を誰が求めようか。定年になって"濡れ落葉"と言われないように、自分の趣味の空間を設け、机に向かって以前からの新字源辞
典とにらめっこしながらのらっかん落款作りをしたり、パソコンに向かって教室で習ったことを復習しながら、苦手だった機械も少しずつ親しみをもって使いこなせるようにしてきた。
 仕事関係以外の友達は、定年後の生活に大切な財産になると思っており、駅前地区にあ
る「さわまつかい爽松会」にも仲間入りさせていただいた。会の趣旨は、地区ボランティア活動を通して親睦をはかりながら、地域活動への積極的な参加を支援しようと言うものです。これが人間的社会的つながりを強化することになると思っている。
 とにかく好きなものを趣味として楽しみ、少しながらの家の周りをきれいにし、わずかな空地を見つけ草花を育て、地域のボランティアを買って出て、手掛けたものが形になっていけば家族も喜び支えてくれると信じている。
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エッセイ・六十の定年からがおもしろい(3)
四国巡り一人旅(徳島編U)
              3区  保科 紀一

 3日目 今日はいよいよ山登りになる。天気はあまり良くない、雨が降らなければいいが少々心配だ。7時出発 藤井寺までは約2q 30分ぐらいで着ける。7時半藤井寺着、予定通り参拝をすませ、本堂のワキから登る。8時出発する、今日は3つの山を越えて神山まで行く予定だ。歩く距離は30q近くになる。歩けるかどうか少し心配だ。8時に藤井寺のワキから登り始める、9時30分長戸庵着、小休止。ここから少し下りすぐに登りにかかる。10時30分柳水庵に着く、ここで水を補給し小休止。以前はここで宿泊させてもらえたが今はお婆さん一人だけなので宿泊はできない。そのかわり「お茶とあめ」のお接待を受けた。
 次が難関の急な登り、一本杉庵に向かう。一本杉庵11時30分着、ここで早お昼とする。宿で作ってくれた「おにぎり」を食べる。食べているうち汗が冷え、寒くなり早々に歩き始める。ここからは 急坂を川まで下り、一気に 500m登ると、12番焼山寺である。やっとの思いで登りきる。『着いたぁ』。杉の巨木が両側に植えられた参道を進むと山門を通し正面に本堂が見える、何組かの団体遍路がお参りしている。私もお参りするのだが、団体さんのお経が声高に聞こえその声につられ自分のお経がとなえられない。早々にお参りを済ませる。
 今日はここまで、後は宿まで行きます。一休みし、あとは下るだけ。急な道を鍋岩まで下り、後は車道を延々と10q以上歩かなければならないが行くっきゃない。今夜は神山の民宿へ泊まる。すぐ前が町営の温泉場、のんびり足を延ばして入れる風呂はさいこう。夕食時大阪からの女性・九州からの男性・東京からの男性達と話がはずみ少々飲み過ぎてしまった。
 4日目 朝起きたら、外は雨。昨日でなくてよかった。今日は13・14・15・16番と歩く予定だ。歩く距離は約20qくらいかな。いつも通り、7時にスタートする。しばらく歩いて何かたりないような気がした。杖を忘れてきたのに気付き宿まで引き返す。二日酔か? 橋を渡り、峠を越え県道をひたすら歩く、雨具を着ていると暑い。犬が後ろから付いて来る、そこで一句『弘法か へんろ後追う はぐれ犬』なんて下手な俳句を読みながらひたすら歩く。
 鮎喰川に出た。川に沿って歩く。12時半13番大日寺に着く。この寺のすぐ前に神社がある「一の宮神社」である。かつてはここの別当寺だったらしい。この寺は寺名と異なり本尊は十一面観音です。この十一面観音は神社にあった物を移して本尊にしたと言われている。お参りをすませ、次に向かう。ここからは比較的近い所にあるし、平地に建つ寺なので助かる。13番から14番までは 2.3q。30分くらいで着く。14番常楽寺は小高い木立ちの繁った中にあり、大きな岩盤の上に建つ寺として知られている。14から15番国分寺までは1qもない近さにある。山門を入ると正面に 200年前に建てられたと言う本堂が参拝者を圧倒するように建っている。お参りを済ませ次は16番観音寺。ここからは 2q程度の距離だ。観音寺は町中にあり、町の人達の信仰を集めているようだ。山門を入ると正面に本堂、右に太子堂がある。参拝をすませ門を出る。今回はここまで。明日からの旅にそなえ、この近くの宿に泊めていただきます。
 それでは次回まで失礼します。
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「豊かな老後とは」

              昭島市福祉推進課長  木戸 和子

 新しい年がスタートしました。
 新しい暦とともに人生の1ページが加えられます。
 高齢化社会を迎えて、豊かな老後とは・・・
明治生まれのあなたは、食事、身の回りすべてひとりでこなし、逆に子どもたちにあれこれ指図する程で、子どもたちにとっては、とても手の掛からない「子ども孝行」を演じてくれていました。
 長年の白内障も、あなたの生きがいとも言えるテレビでの大好きな巨人の野球中継が見えなくなり、また、毎日隅まで読むという新聞の字も読みにくくなって、やっと観念して手術を受けました。90歳という高齢手術に周囲は心配したものです。
 退院後は、またみんなの手を借りながらも日常のことは自分でと頑張っていましたね。しかし、まもなく腰痛を病んで歩行が困難になり急速に衰え始めました。
 今、あなたの子どもたちは、初めて介護という現実に直面しています。戸惑いながらの「介護」です。
 「どうしたらみんなに迷惑をかけないで死ねるかね。」あなたの口癖です。
 長い世代を運命に逆らわずに自然のままに生きてきたあなたを子どもたちがゆっくり歩んで追っています。
人はみな悔いのない自分らしい生き方を模索しながら「やがて行く道」を歩き出していきます。
一瞬一瞬を大事に感謝しながら、人生を天に託して。
エンディングはまだ先です。
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昭島に来て5年が経ちました
              3区  中学三年  生部 幸

 私がこの町に来た頃は空地だった場所が、「エコス」や「イトーヨーカドー」など、人々の役に立つ店に変わり、もう昔から当たり前のようにあったという感じになっています。そして今では私の家の近くに病院が建とうとしています。
 また、この5年間にもう一つ変化したことがあります。「親友」と呼べる大切な人ができたことです。5年前、転校してきたばかりですごく不安だった私に話しかけてくれ、それからのこの5年間、私たち二人はずっと一緒にいました。
 どんどん姿を変えていく「昭島」。その中でずっと変わらず私の隣にいてくれた「親友」。私はこの「昭島」で「親友」と呼べる人ができたことを自慢に、そして誇りに思います。そしてこれから先、「昭島」と「親友」は、私にとってかけがいのない宝物となっていくことでしよう。 
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「厳しく教え、温かく育てる〜〜春の雪が降った朝に〜〜」

           長谷川 由利子

夕べ降った雪は、瓦屋根と庭木を真っ白な綿帽子で覆いました。それでも立春を過ぎてからの雪は、寒中のそれとは違って、暖かさを感じます。
拝島第三小学校を「卒業」してから、早くも1年が経とうとしております。 拝島駅前自治会の皆様には、ご健勝のことと拝察致します。在職中は、お世話になりました。特に、ブロック運動会では、毎年可愛い鼓笛隊のパレードを見せていただき、心和む思いを致しました。ありがとうございました。「卒業後」の私は、昭島市教育研修室で教育研修担当として、主に本年度教師になった方々の研修会に関わって参りました。この昭島で教師としてスタートした方々が、より良い「先生」になるようにと念じながら、共に歩いた1年間でした。18名の若い力です。
最初の頃は講義が主となりますが、1学期末頃からは、模擬授業やグループによる指導案の検討・教材の研究などを重ねて、2学期以降の研究授業に備えました。 また、同じ教育研修担当員と共に、各学校を巡って、18名の先生方の授業を拝見した上で、更なる改善点を共に考えて参りました。教材の準備やその使い方、また、授業に参加しにくい子どもさんたちへの関わり方などを助言し、応援してきました。
そのほか、教科等の指導や生活指導の研究会、道徳授業地区公開講座、各種の研究発表会などに参加し、直接子どもたちの活躍の場を見せていただくことができました。 社会の大きな変化の中で、教育もまた様々な変革が試みられている時です。しかし、学校・家庭そして地域で、直接子どもと接する我々大人は、その一人の子どもに対して命の重さを感じ、賢くなりたい気持ちを汲んで、『厳しく教え、温かく育てる』気概を持ち続けること、実践することを変えてはならないと思います。
「毎日学校へ通っていた頃」とは異なり、少し離れた位置から昭島の子どもさんたちの成長を見る立場をいただいたお陰で、また新たに大人としての責任を感じています。
最近の事故や事件に巻き込まれる子どもたち、子どもを事件に巻き込む大人たちを見るに付け、やり場のない怒りと悲しみをおぼえます。 21世紀の社会を創る担い手が、今の子どもたちです。健全で明るい未来のために、子どもたちの健やかな成長を心から願い、微力ながらその成長の手助けを続けたいと思う今日この頃です。
                         (昭島市教育研修室・H17、2、25)
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私の趣味「投げ釣りの魅力」

               多摩中央信用金庫拝島支店 副支店長  財津和生

私の趣味はと聞かれると「釣りや温泉巡りです」と答えています。
特に釣りは小学校の頃、父親に連れていってもらって以来その魅力にとりつかれています。釣りといっても砂浜からの投げ釣り(サーフキャスティング)、堤防からの投げ釣りが私にとっての主流で船釣りや磯釣りはやっていません。
 休日に小田原の国府津海岸周辺の砂浜や、川崎や横浜近辺の堤防からのキャスティング(投げ)は日頃のストレス解消にもってこいで、釣れたときの喜びは何度やっても飽きることがありません。
 投げ釣りは他の釣りと違って重めの天秤(重りの役目をするもの)に餌付針の仕掛けをセットし、渾身の力を込めて大海原に向かって投げ込む(これをキャストするともいう)。スポーツ性に富んでおり50〜100m程度先へ仕掛けを飛ばすことで、沖底の魚とのかけ引きを行います。慣れてくると、仕掛けを引き戻す時の手に伝わってくる感触で海底の形状等も何となくイメージ出来るようになり、この釣りの奥の深さを自分なりに楽しんでいます。
 対象魚はシロギス、メゴチ、イシモチ、カレイ等ですが、なんといってもパールピンクの魚体で海の女王と評されるシロギスがお気に入りです。針掛かりしたときの引きもなかなかなもので、釣り上げた姿を見ると本当に美しくて嬉しい気持ちになります。またシロギスをはじめ先に列挙した魚は白身が中心で、刺身、煮付け、天ぷら、焼き魚等いろいろな料理方法で美味しく食べることが出来ます。自分で釣った魚での一杯は本当に最高です! このように投げ釣りは、キャスト(投げ)しては引き戻すという繰り返し行うため朝から夕方まで続けていると普段の運動不足も解消してしまいます。また投げ釣り用の竿、糸、リール、仕掛け、餌(イソメ類)はそれ程高価ではないため、誰でも気軽に始めることが出来る釣りだと思います。
 これからも休日には早起きをして大海原に向かい、青空の下で大好きな投げ釣りを続けていこうと思っています。もし「何か始めてみようかな」とお考えの方は、投げ釣りも候補のひとつにしてみてはいかがでしょうか。
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地球の科学(大陸は移動する)
                3区  竹間 弘

 最近、阪神淡路大地震(1995.1.17、M=7.3)以来、鳥取県西部地震(2000.10.6、M=7.3)芸予地震(2001.3.24、M=6.7)宮城県沖地震(2003.5.26、M=7.1)十勝沖地震(2003.9.26、M=8.0)新潟県中越地震(2004.10.23、M=6.8)、またインドネシア・スマトラ島沖地震(2004.12.26、M=9.0)等の大地震が多発した。
 そこで、これらの地震発生のメカニズムについて申し述べたいと思う。地球は多くのプレートにより覆われ、その上に大陸が乗っている。これらのプレートはマントル対流に乗って海溝へ移動し、それにともない大陸は移動する。
 今から3億年(石炭期)頃までは全ての大陸は巨大な超大陸「パンゲア」として一つにまとまっていた。石炭期の終わり頃より現在に至るまでの間、このパンゲアは分裂し移動して現在のヨーロッパ大陸、南北アメリカ、アフリカ、オーストラリア大陸などの大陸となったと云われている。この大陸移動説を最初にとなえたのがドイツの気象学者ウェゲナーである(1914年)。彼は世界地図を見たとき、大西洋をはさんで南アメリカ大陸の東海岸線とアフリカ大陸の西海岸線の形がよく似ている。数千万年前には大西洋は存在せず、これらの大陸はくっついていたらしいと云うことで、その後数千キロという道程を数千万年という時間をかけて移動し現在のようになった。このウェゲナーの学説の大陸移動はそれが乗っているプレートの移動にともなうものであり、このプレートはマントル対流にのり海溝へ移動している。その後、マントル対流理論は海底移動説、海底拡大説等の学説を生みプレートテクトニクス理論へと発展している。
 今述べたように、地球は多くのプレートにより覆われている。日本列島は静岡より北東の関東・東北・北海道は北アメリカプレートに乗っており、東より太平洋プレートが押し寄せ北アメリカプレートの下に沈んでいる。このバランスがくづれると境界型大地震となり、関東大地震(1923年)はその一つである。また静岡より西の関西・四国・中国地方等はユーラシアプレートに乗っており、南の方からフィリピン海プレートが押し寄せ、その圧力により大断層が生じ直下型の阪神・淡路大地震が起こった。このような地震が今後も発生する可能性がある。
 ところで、我々の住む昭島地方にM=6以上の地震が直下型で生じたとすると、大災害を生じる可能性のある場所が数ケ所見うけられる。それが単に思いすごしに終われば幸いです。
 尚、この文を書くに当たり参考にさせていただいた次の資料に感謝申し上げます。
  地球の科学:竹内均・上田誠也 NHKブックス   移動する大陸:Aハラム・浅田敏訳 講談社現代新書         続・地球の科学:竹内均 NHKブックス
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モンゴル国に魅せられて・私とフフテンゲルの会

               交通部長  丸岡浩一

 私がモンゴルに本格的に興味を持ったのは、私の写真表現の原点は中央アジアにあるとほぼ認識した1990年も終わり頃だった。
 実際にモンゴル国の地を踏んだのは2001年のことである。初めてのモンゴル国は、言葉はわからないまでも違和感は無く「いつ来たのだろう?懐かしい」と体全身で感じることが出来た。また写真表現でも一壁抜けたように思う。
 写真の場としてのモンゴル国に魅せられ、どこからも支援を受けずに、サラリーマンを続けながら、この国で活動できる拠点を探していたところ、翌年の夏、モンゴル交流グループ「フフテンゲル(青い空)の会」と出会うことになった。このグループは、日本とモンゴルとの国際交流を通して、身近な友達関係をつくり、両国の生活・文化・歴史・自然をお互いに理解し「友好・発展」を深めることを目的にしている。
 グループの一員となって、これまでに国立外科病院に車椅子を届けたり、民間ボランティアグループに衣類を届けたり、また、視覚障害者グループからの要請を受け、乗馬を通して視覚障害者と対話するという企画もクリアしてきた。国内では、駐日モンゴル国留学生会が実施するイベント類の支援、留学生を先生にしたモンゴル語教室の運営などを手掛けている。これまでのグループの活動が認められ、2004年7月に駐日モンゴル全権大使閣下と学生会より感謝状をいただいた。
 私のモンゴル国への自費出張もすでに5回を数えるようになった。そんな中で、モンゴル国の古典音楽の第一人者として知られる馬頭琴奏者ダンジントルジン・トウフシンさんとも親しくお付き合いするようになった。4月下旬にはハワリンバヤル2005(春まつり)で来日の予定があり、拝島の皆さんにも本物を聴いて戴く場を作りたいと今計画を練っているところである。実現したら大勢の方々に来ていただきたいと思う。

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なんでも掲示板(16年度事業報告詳報) 自治会ページへ

 
第53回の定期総会議案書ではじめての試みとなった付録"なんでも掲示版"でしたが、皆様から寄せられた声はおおむね好意的なものでした。付録の趣旨は、やがて記念誌をといったときの参考になるように、諸活動の記録等を書留めておいたらというものでしたから、もう少し続けてみようということになりました。(総務部)


目 次

東京大空襲パネル展を観て   役員研修旅行(潮来十二橋・鹿島神宮めぐり)  平成16年度体育部活動報告 

研修旅行に参加して   「拝島駅前お祭り音頭」の振り付けに寄せて   新撰組のふるさとを訪ねて  

民生委員・児童委員の改選にあたって 夫婦桜を植える会に参加して  定年その後 四国巡り一人旅(徳島編U)

「豊かな老後とは」  昭島に来て5年が経ちました  「厳しく教え、温かく育てる〜〜春の雪が降った朝に〜〜」

私の趣味「投げ釣りの魅力」  地球の科学(大陸は移動する)  モンゴル国に魅せられて・私とフフテンゲルの会