共光稲荷社由来 写真はこちら
石川酒造日誌より
 
明治41年1908年7月2日

降雨不止、知東京(注1)へ行、停車場稲荷神社御神体納

メ祭式神酒五升ヲ献ス、酒飯振舞ヲ受ク、此御神体ハ

現水衛所詰東京市水道部吏員中根貞行氏ガ、旧高田藩(注2)

重役タリシ時、其邸内(注3)ニ安置セシ由緒アル正一位稲荷

ヲ同氏ノ発願ニテ移シ参ラレシ次第ナリ、社ハ両三年

前停車場住民一同ノ建ツルところ(注4)、宮ハ昨年庫之助ノ作事

スル所ナリ

注1:東京府知事、ここでは東京府庁か。
注2:江戸時代初期の松平忠輝から親藩・譜代大名が多数交代。幕末明治は榊原氏
注3:上屋敷は神田橋之内
    中屋敷は現在の東京大学本郷キャンパスの東南角の一部から春日通りを挟んだ地域
    下屋敷は現在、上野池之端の旧岩崎邸庭園になっている 中屋敷と下屋敷は目と鼻の先

  
旧岩崎邸庭園のすぐ北 不忍池のそばに由緒ある「境稲荷」があります
  高田藩邸内にこの稲荷社を勧請した可能性は高いと思われます
  もしかしたら熊川村と拝島村の「境」に祀ったことに意味があったのかもしれません
  とすれば「共光」とはまさに字義どおり両村がともに光るようにという願いを込めたということに


注4:旧字のため表示不可

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安政の大獄
鵜飼幸吉(京都市・長楽寺)
水戸藩士。年少にして砲術師範福地政次郎について神発流砲術を学び、安政二(1855)年と翌年の両度武芸出精により賞せられた。
安政三(1856)年2月小十人組に列して京都留守居役手添となった。安政四(1857)年京都留守居助役となり、父と共に在京した。
有志と交わって攘夷の議に加わり、しばしば意見を公卿の間に陳述した。安政五(1858)年8月同藩に勅書が降下するや、
姓名を小瀬伝左衛門と変え、父に代わってこれを江戸小石川邸に届けた。
老中間部詮勝の京都に入るに及び、父と共に捕えられ、江戸に檻送されて
高田藩邸に禁固となり、
安政六(1859)年8月27日死罪梟首に処せられた。享年32歳

高田藩邸で、お稲荷さんはこの場面を見ていたかも。