自然と自分
3区 山岸 兵蔵
『臍の緒』
芭蕉が奥の細道5ヶ月余りの長旅を終え、美濃大垣にたどり着いたのは元禄2年(1689年)彼45才の秋であった。
そこから舟で川を下り、伊勢路を急いだ。伊賀上野郷里では彼の兄が待っている。母が去年亡くなったのだ。
「只今ア!」、高ぶる思いをおさえて我が家へ入ると、彼の兄が「ほら、これがお前の臍の緒だ」と言って小さな箱を手渡してくれた。
親の死に目にも会えなかった自分、孝養を尽し得なかった自分、その腑甲斐無さ・・・。万感胸に迫り、溢れる涙が止まらない。沈黙の時が流れる・・・。
そして嘆じた
舊里や臍の緒に泣としの暮 (ふるさとやへそのをになくとしのくれ) ・・・と。
<笈之小文(おいのこぶみ)>
臍の緒、これは母と自分、父、母と自分、先祖と自分、世の多くの皆さんと自分のものだ。そしてこの臍の緒を切った所がふる里、これは昔も今も変るものではない。
極月12月、旅から旅へと紀行行脚を重ね、たどり着いたふる里伊賀上野・・・。しみじみと今ある自分、生かされて生きている自分を見つめ、溢れる涙を禁じ得なかったのであろう。
改めて臍の緒の存在を思うものである。
『縦と横』
私達の着物は縦糸と横糸で織られている。また地球上の位置は緯度経度の座標で示されている。縦と横、言葉ではどちらもつかみにくいものであるが、人間社会にとっては不可欠のものである。
先生と生徒、親と子、天地と生きとし生けるもの・・・。文明文化を開拓してくれた先人があって、初めて現代の私たちがある・・・。それ等の人達はこの世にいない。これは縦の世界― 日月星辰、水土空気、山川草木― 宇宙の大自然があって私達の生存がある。
また、ここに生かされているものは皆隣人である。これは横の世界、平等の世界である。縦の世界は合掌、横の世界は握手である。
私達は見えるものだけにとらわれ易いが、見えないものに心を向けることを忘れてはならないと思うものである。
何事のおはしますをばしらねども
かたじけなさになみだこぼるる 西行 <山家集(さんかしゅう)>